第95話:甘い誘惑とストロー越しの距離。
昼の作業時間。
朝の失態(焦げたオムレツ)を「有能な仕事」で塗り替えようと、朝陽くんは気合を入れて最高の一杯を淹れます。
しかし、そこで待っていたのは、凛ちゃんによる「やりたいようにやる」第二弾。
「……よし。今度は完璧だ」
キッチンで独りごち、俺はグラスを光にかざした。
豆の挽き方、抽出温度まで、俺が持てる全神経を注いで淹れた至高のアイスコーヒー。結露で彼女の手を濡らさないよう、結露しないグラスを使用した。
朝の、あの「焦げたオムレツ」というサポーターにあるまじき失態。あれを払拭するには、完璧な「仕事」で返すしかない。俺は深呼吸をして理性のネジを締め直し、凛の作業部屋のドアを静かにノックした。
「入っていいか?。コーヒーを持ってきた」
「あ、朝陽くん。ありがとー……」
了承を得て部屋に入ると、凛は液タブに向かったまま、ペンを動かす手を止めなかった。画面の中では、複雑な背景の下書きが着々と進んでいる。
俺は邪魔にならないよう、デスクの空いたスペースにグラスを置いた。
「置いておく。適当な時に飲んでくれ。……じゃあ、僕はこれで」
「あ、待って! 朝陽くん、行かないで!」
背後から飛んできた切実な声に、俺は足を止めた。
「なんだ? 資料か何か必要か?」
「ううん、そうじゃなくて……今、すごくいいところなの。一秒も、一瞬も、このペン先から意識を逸らしたくないの……!」
凛は画面を凝視したまま、必死に訴えかけてくる。
「でも、集中しすぎて喉がカラカラなの。……ねえ、朝陽くん。飲ませて?」
「……は?」
俺は自分の耳を疑った。
「何を言ってるんだ。すぐ横に置いてあるだろ。片手で持って飲めば――」
「ダメ! 視線も動かしたくないの! これ、サポーターの仕事でしょ? 私の集中力を切らさないように、最大限のサポートをして!」
凛がようやくこちらを振り向いた。その瞳には、創作への執念と……それから、俺を困らせて楽しもうとする、いたずらっ子のような光が混ざっていた。
なんなら少し二ヤついている。
「『やりたいようにやる』から覚悟してねって、言ったよね?」
「…………っ」
逃げ場はなかった。
俺は、震える手でグラスを持ち上げた。
ゆっくりと、彼女の口元へストローを寄せる。
近すぎる。
俺の手首に、彼女の規則正しい吐息が柔らかく当たった。
凛は視線を画面に戻すと、吸い寄せられるようにストローをくわえた。
ごくり、と彼女の喉が小さく動く。
ストローを伝ってコーヒーが吸い上げられる音が、静まり返った部屋にやけに大きく響いた。
(……なんだ、これは。何の拷問だ)
俺は、彼女の唇がストローを噛む微かな動きから目を逸らせなかった。
潤んだ唇。集中してわずかに寄った眉。
サポーターとして、彼女の創作を支えているはずなのに。
俺の心臓は、仕事モードとは正反対の、暴力的なまでの鼓動を刻んでいた。
「……ふぅ。おいしい」
凛がストローを離し、満足げに息を吐いた。
少しだけ濡れた彼女の唇が、俺の視線を吸い付けて離さない。
「朝陽くんが淹れてくれたコーヒー、世界で一番効くかも。ありがと、おかげで乗り切れそう」
彼女は何事もなかったかのように再び作業に没頭し始めた。
……今の「あーん」は、彼女にとって、ただの水分補給に過ぎなかったんだろうか。
それとも、僕の反応を見て楽しんでいるんだろうか。
「……そうか。なら、いい(全然よくない)」
俺は、ほとんど壊れかけたロボットのような足取りで部屋を脱出した。
廊下に出た瞬間、壁に手をついて崩れ落ちそうになる。
顔が、茹で上がるほど熱い。
手を貸し、背中を合わせ、そして今は……。
次に彼女が「やりたい」と言い出すことが、怖くて、そして恐ろしいほど待ち遠しかった。
第95話、ありがとうございました!
凛ちゃん、今度は「創作の集中」という大義名分を引っさげて、朝陽くんにアイスコーヒーを「あーん」させちゃいました。
「やりたいようにやる」という宣言通りの攻勢に、朝陽くんの理性が文字通りストロー一本分の距離まで追い詰められていますね(笑)。
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