第92話:「やりたいようにやる」宣言。
背中合わせの温もりに耐えきれず、必死に「サポーター」という殻に逃げ込もうとした朝陽くん。
けれど、吹っ切れた凛ちゃんはもう止まりません。
背中から伝わってくる、凛の体温。
ドクンドクンと、自分のものではない鼓動が服越しに伝わってくるようで、俺はもう教科書の文字を追うどころではなかった。
「……離れなよ。サポーターとの距離感じゃないぞ、これは」
震えそうになる声を必死に抑え、俺は彼女を促した。
「ほら、お風呂入っておいで」
「わかったよー」
凛は意外にもあっさりと背中を離し、立ち上がった。
けれど、部屋を出る直前、彼女はドアノブに手をかけたまま、不敵な笑みを浮かべて振り返った。
「朝陽くん。私、やりたいようにやることにしたからね。覚悟してね」
「……え、なんのこと?」
「今は秘密。お風呂入ってきまーす!」
バタン、とドアが閉まる。
やりたいようにやる? 怖い。正直、嫌な予感しかしない。
……いや、落ち着け。俺はサポーターだ。
そう、サポートするだけ。何も問題はない。
凛と入れ替わりで、僕もお風呂に向かった。
……脱衣所。
ここに来ると、どうしてもあの光景を思い出してしまう。
白い肌。驚愕の表情。
(……見てしまった。ごめんな、凛)
頭の中で、エンドレスに謝罪が繰り返される。
服を脱ぎながら、鏡を見る。情けない顔だ。
シャワーの音に紛れて、自分に言い聞かせる。
「やりたいようにやる」のが住居ルールの変更だろうが、食生活の改善だろうが、俺は淡々とこなすだけだ。
そうだ、俺はただの……サポーターなんだから。
風呂上がり。リビングでは、凛がストレッチ用のマットを広げて待っていた。
恒例のマッサージタイムだ。
いつも通りマッサージをし、ストレッチへ。
俺が凛の足首を持ち、可動域を広げる手伝いをする。
「……よし、今日はこのくらいで終わりにしよう」
「えー! もっと! まだここが張ってる気がする!」
いつもなら素直に切り上げる凛が、今日は頑なに食い下がった。
結局、普段の倍以上の時間をかけて、俺は彼女の体を解した。
……いい加減、限界だ。これ以上彼女に触れていたら、僕の理性が霧散してしまう。
「凛、もうおしまいだ。寝る準備を――」
「今度は私だね!」
凛がくるりと身を翻し、僕の肩を力強く押した。
「朝陽くん、そこに寝転がって」
「……は? 僕はいいよ、別に疲れて――」
「いいから! ほら!」
押し問答の末、俺は床にうつ伏せに寝かされた。
……ああ、なるほど。
これはいわゆる「背踏み」マッサージだろう。ストレス解消を兼ねて、俺の背中を踏みつけるつもりなんだ。
それならいい。彼女がスッキリして、明日からまたイラストに向かえるなら、踏み台にでも何にでもなろう。
俺は覚悟を決めて、目を閉じた。
けれど。
背中に感じたのは、足の裏の硬い感触ではなかった。
……柔らかい。そして、膝が僕の腰を挟み込むような感触。
「……な、何をしてる?」
目を開けようとしたが、凛が僕の背中に跨がった(馬乗りのような状態だ)ことで、身動きが取れなくなった。
そして、次の瞬間。
「…………っ!?」
背中の凝った部分を、指先が、ぐっと押し込んできた。
手のひらで包み込むような、丁寧で、温かいマッサージ。
「……っ、手は使わない約束だろ……! 指圧なんて、手を痛めでもしたら――」
「私が朝陽くんに感謝を伝えるには、手が一番心がこもると思うの」
凛の声は、至近距離で僕の耳を打った。
「今日一日、お仕事してなくて疲れてないから。大人しくやられなさい」
「……こういうのは、もっと相応しい人にしてあげてください」
俺は、喉の奥から絞り出すように言った。
俺のような、中途半端な男ではなく。もっと彼女を真っ直ぐに愛せる、清廉な誰かに。
けれど、凛は迷いのない声で即答した。
「相応しい人にしてますよ?」
凛の声は、至近距離で僕の鼓動を直接叩いた。
……思考が、完全に停止した。
その言葉の意味を理解しようとする脳が、オーバーヒートを起こして煙を上げている。
俺のような、ただの『道具』に徹しようとしている男に向かって、彼女は何を言っているんだ。
聞き返そうにも、喉がカラカラに乾いてしまって音にならない。
「…………っ」
背中に乗る彼女の重みが、急に増したような気がした。
いや、違う。俺の感覚が、彼女の存在を過敏なほどに拾い上げているんだ。
膝が僕の腰を挟む感触。背中を押す、小さくて温かい指先。
その指先が、俺の凝り固まった筋肉をなぞるたび、全身に熱が回っていく。
ふと、彼女の呼吸が少しだけ乱れているのに気づいた。
下からのぞき込まなくても分かる。今、彼女も俺と同じくらい、あるいはそれ以上に顔を真っ赤にしている。
そこからは、もう言葉なんて必要なかった。
いや、怖くて誰も喋り出せなかった。
時計の針が刻む音と、お互いの微かな呼吸音。
無香料の消臭剤で満たされたはずの部屋に、風呂上がりの石鹸の香りと、彼女が纏うバニラの匂いが濃く混ざり合っていく。
凛の手は、決してプロのような手つきじゃない。
けれど、迷いながらも一生懸命に俺の背中をほぐそうとするその指先から、言葉以上に重たい「熱」が伝わってきた。
「……ふぅ。おしまい」
どれくらいの時間が経っただろう。
凛がようやく俺の背中から降り、マットの上にぺたんと座り込んだ。
俺は、這い上がるようにして上体を起こす。
案の定、凛は耳の付け根まで真っ赤に染めて、視線を泳がせていた。
俺も、自分の顔が茹で上がるほど熱いのを自覚していた。
目が合う。
けれど、コンマ一秒も持たずに、二人同時に視線を逸らした。
「……あ、ありがと。朝陽くん。おかげで、明日も頑張れそう」
「……いや。……僕こそ、……助かった」
何が助かったのか、自分でもよく分からない。
ただ、胸の奥で燻っていたドロドロとした自己嫌悪が、彼女の指先の熱に押し流されてしまったことだけは確かだった。
「じゃあ、おやすみ! 明日も……よろしくね」
凛は逃げるように立ち上がると、パタパタと自分の部屋へと駆け込んでいった。
バタン、とドアが閉まる音が、静かなリビングに響く。
一人、マットの上に残された俺は、しばらく動くことができなかった。
背中に残った、彼女の指の感触。
『相応しい人にしてますよ?』という、心臓の奥に居座ったままのセリフ。
俺は立ち上がり、キッチンの水道で顔を洗った。
冷たい水で冷やしても、顔の熱は一向に引いてくれない。
明日の朝、どんな顔をして彼女に会えばいいんだろう。
『サポーター』なんていう都合のいい盾が、今夜、彼女の小さな手によって砕かれ始めた気がした。
部屋の電気を消し、暗がりのアパートを横切って自分の寝床へ向かう。
夏休み。十日間の約束。
折り返し地点を過ぎた四日目の夜。
僕は、生まれて初めて「明日が来るのが怖い」と、「明日が待ち遠しい」という矛盾した感情に、同時に支配されていた。
第92話、ありがとうございました!
あえて言葉を重ねないことで、二人の「自覚し始めた熱」がより鮮明に伝わるラストになりました。
朝陽くん、もう『サポーター』という逃げ道は通用しなさそうですね(笑)。
真っ赤になって部屋に逃げ込んだ凛ちゃんと、一人キッチンで水を被る朝陽くん。この「じれったさ」こそが二人の今の距離感です。
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