第90話:僕から俺へ。
外で親友に背中を押され、キラキラした笑顔で帰ってきた凛ちゃん。
対する朝陽くんは、一人アパートで「最悪の事態」を想定し、静寂の中で自問自答を繰り返していました。
「嫌われて当然」「もう帰ってこないかもしれない」
そんな臆病な自意識と、彼女を守りたいという歪な正義感。
サポーターという仮面の下で、ぐちゃぐちゃに掻き乱された彼の「本音」を、どうぞじっくりとお読みください。
凜が帰ってくる少し前。
時計の針が刻む音だけが、無機質なリビングに響いている。
彼女がいないアパートは、まるで酸素の薄い密室のようだった。
たった三日間。彼女という嵐がこの部屋に居座っただけで、僕は「一人の静寂」という、かつての当たり前を忘れてしまったらしい。
僕はソファの端に深く腰掛け、一度だけ、肺の底にある重たい空気を吐き出した。
(……結局、今朝もまともに顔を見られなかった)
情けない話だ。
サポーターとして、彼女のメンタルを管理し、創作に集中できる環境を整えるのが僕の役目なのに。
昨日の、あの脱衣所での出来事。
白い肌、驚きに見開かれた大きな瞳。
その残像が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
思い出そうとしなくても、勝手に脳が再生を始める。
そのたびに、僕は自分の中の『サポーター』という理性のネジが、一本、また一本と弾け飛んでいくのを感じていた。
「……気持ち悪いと思われたよな。普通は」
僕は両手で顔を覆った。
僕のような、過去に人間関係を拗らせ、感情の死に場所を探しているような男が、あんな純粋な創作意欲の塊である彼女のそばにいていいはずがないんだ。
今頃、佐藤さんの家で、僕の不気味さについて相談しているんじゃないか。
『もうあのアパートには帰りたくない』
もし、彼女がそう言ったなら……。
その思考に、心臓が握りつぶされるような痛みを覚えながら、安堵もしていた。
もうヒロインを傷つけなくて済むと思っていた。
僕は、そんな自分勝手な恐怖を振り払うように、勢いよく立ち上がった。
じっとしていられず、僕はキッチンに向かった。
こういう時は、無心で何かを作るに限る。
カチャリ、と。
玄関の鍵が開く音がした。
僕は心臓が止まるかと思った。
「ただいま、朝陽くん!」
聞こえてきたのは、今朝までの重たい空気を一瞬で塗り替えるような、弾けるほど明るい声。
僕は、慌てて鍋をかき混ぜるフリをした。
肩が、自分でも情けないくらいびくんと震える。
「……お、おう。おかえり」
振り返った視界に、凜がいた。
……驚いた。
そこには、出かける前までのどんよりとした顔はどこにもなかった。
良かった。佐藤さんと話をして、スッキリしたのだろう。
そう安堵したのも束の間、彼女はトコトコと迷いのない足取りで、キッチンまでやってきた。
「ねえねえ、今日のご飯なに?」
近い。
あまりにも、距離が近すぎる。
ひょいと僕の肩越しに鍋を覗き込んでくる彼女から、微かに外の空気と、甘いバニラのような香水の匂いがした。
昨日の事件以来、彼女は僕を拒絶し、遠ざけるものだと思っていた。
なのに、彼女はまるで何事もなかったかのように、僕のパーソナルスペースを軽々と踏み越えてくる。
心拍数が、暴力的なまでに跳ね上がった。
事件の残像が脳裏をよぎるせいだけじゃない。……今日の彼女は、私服だった。
僕と一緒に買い物に行く時の、あの地味目な変装(あれだって十分可愛かったけれど)とは違う。
友達と、一人の女の子として堂々と歩ける、彼女自身の輝きを纏った私服。
(……綺麗だ。……可愛いなんて言葉じゃ、足りないくらいに)
そんな感想が口を突きそうになり、僕は慌てて奥歯を噛み締めた。
今の僕は、どんな顔をしているだろう。
きっと、酷く滑稽で、情けない顔をしているに違いない。
「……まだご飯はできない。先に、お風呂に入っておいで」
「わかった! じゃあお言葉に甘えて!」
彼女がパタパタと、再びあの脱衣所へと向かっていく後ろ姿を見送りながら、僕は力なく溜息をついた。
……なんで僕は、お風呂を溜めていたんだろう。
彼女が帰ってこない可能性を、あんなに自分に言い聞かせていたくせに。
結局のところ、僕は彼女の帰還を、祈るように信じて準備していたのだ。
そもそも、なんで僕はこんな人と一緒に住めているんだろう。
『サポーター』だからだ。
たまたま家が隣で、たまたま彼女に生活能力がなくて、たまたま行き詰まっているところを助けて、たまたま僕の飯が口に合っただけ。
ただの、偶然の積み重ねだ。
本当は、彼女はもう帰ってこないと思っていた。
好きでもない男に下着姿を見られたんだ。気持ち悪いと思われて当然だ。
佐藤さんの家に泊まるか、おばあちゃんに頼んでビジネスホテルに逃げるか。
そうなるのが「普通」で、そうなった方が彼女のためなんだと、自分に言い聞かせていた。
……なのに、僕は安堵している。
彼女が、この場所に帰ってきたことに。
この二日間、彼女の表情はずっと暗かった。
僕のせいで。僕の失態のせいで。
彼女のおばあさんに、「託してほしい」と言い、引き受けた役目なのに。
昨日の『どうだった?』という問いにすら、逃げることしかできなかった。
否定も、肯定も、賞賛も。何も言えないまま、彼女を一人で傷つかせた。
全部が、中途半端だ。
守りたいと言いながら傷つけ、そばにいたいと願いながら目を逸らす。
(僕は……俺は、こんな自分が大嫌いだ)
こんな臆病で、不器用で、卑怯な自分。
ましてや、彼女に好かれる資格なんて、微塵もありはしない。
「……っ」
俺は強く、お玉を握りしめた。
感情を殺せ。期待をするな。
せめて、任されたこの役割だけは、完璧に全うしてみせろ。
彼女が求めるのは、恋人でも、理解者でもない。
ただの、有能な「サポーター」なのだから。
第90話、ありがとうございました!
朝陽くん、重い……!あまりにも自己評価が低くて、読んでいるこちらが「そんなことないよ!」と肩を叩きたくなりますね。
「嫌われるのが当然」だと思い込みながら、それでも彼女のために風呂を沸かして待っていた彼の健気さが、痛いくらいに伝わってきます。
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