第87話:私服の休日と、見ないこと。
ついに共同生活も四日目の朝を迎えました。
……が、当のヒロイン・凛ちゃんは今、それどころじゃありません。
限界を迎えた彼女は、ついに唯一の親友・陽菜ちゃんにSOSを送ります。
お気に入りの私服に身を包み、気まずさMAXのアパートを脱出して、いざ「外の世界」へ!
四日目の朝。
キッチンから漂ってくる、出汁と味噌の香りで目が覚めた。
同居生活も、今日で折り返し地点に近い。
「……おはよう、朝陽くん」
「ああ、おはよう。……飯、できてるぞ」
食卓には、湯気を立てる味噌汁と、綺麗に焼かれた鮭。
いつも通りの完璧な朝食。だけど、私たちの間には、昨日までの「サポーターとイラストレーター」という関係だけでは説明できない、重たい何かが沈殿していた。
(……昨日のこと、まだ引きずってるよね。お互いに)
私は味噌汁を啜りながら、チラリと朝陽くんを見る。
彼は一心不乱に納豆をかき混ぜていた。本当に全力でかき混ぜていた。
絶対に、私の顔を見ようとしない。
昨日の脱衣所での出来事と、その後の私の「どうだった?」という質問が、彼の『見ない努力』を極限まで引き上げているのが分かった。
朝食を終え、私は自室で着替えを済ませた。
今日は、かつて彼と外出した時に着ていた変装用の服じゃない。
少しだけ透け感のあるブラウスに、ラインの綺麗なロングスカート。
久しぶりに、ちゃんと「女の子の休日」という格好をした。
(……どうかな。変じゃないかな)
鏡の前で一回転して、私はリビングへ向かう。
朝陽くんはソファに座り、分厚い参考書を開いていた。
「……あの、朝陽くん。準備できた」
「……ああ。……気をつけてな。車とか、不審者とか」
彼は、一瞬たりとも本から視線を上げなかった。
ページをめくる手が微かに止まった気がしたけれど、頑なに文字だけを追い続けている。
……ちょっとくらい、こっちを見てくれてもいいのに。
いや、見られたら見られたで「感想は!?」ってまたパニックになるのは私なんだけど。
「……じゃあ、行ってくるね」
「ああ。……夕飯までには戻るか?」
「うん。陽菜にたっぷり絞られてくるから、たぶんフラフラで帰ると思う」
私が苦笑いしながらドアを閉めると、背後から「……そっか」という、どこか安堵したような、寂しそうな声が聞こえた気がした。
パタン、と。
軽い音を立てて玄関のドアが閉まった。
それと同時に、僕は握りしめていた参考書を、がさりとソファに投げ出した。
「…………ふぅ」
肺の中の空気を全部吐き出す。
結局、最後まで彼女の顔をまともに見ることができなかった。
いや、正確には「見てはいけない」と自分に言い聞かせていた。
昨日の、あの脱衣所での光景。
そして、その後の彼女の震えるような質問。
『どうだった?』なんて、あんな顔で聞かれて、まともな神経でいられるはずがない。
(……今日の私服、反則だろ)
本に目を落としていたふりをしながら、僕の視界の端には、彼女のすべてが焼き付いていた。
いつもとは違う、さらりとしたブラウス。
歩くたびに揺れる、綺麗なラインのスカート。
結び直した髪の毛先が、微かに彼女の首筋をなぞる。
「……見たら、昨日以上の失態を晒す自信があったな」
あんなに「女の子」を全面に出した彼女を正面から受け止めるには、今の僕の「サポーター」という盾はあまりに脆すぎた。
彼女が僕の視線を気にして、無理に明るく振る舞っているのも分かっていた。だからこそ、僕は「見ないこと」で彼女の平穏を守ろうとした……つもりだった。
でも、いざ彼女がいなくなってみると。
強力消臭剤でクリーンになったはずのリビングが、ひどく無機質で、広く感じられる。
たった三日間、彼女がいただけで。
「……夕飯、何にするか」
独り言が、誰もいない部屋に虚しく響く。
僕は、まだ耳の奥に残っている彼女の「行ってくるね」という声を振り払うように、キッチンへと重い腰を上げた。
第87話、ありがとうございました!
朝陽くん、本を読んでるフリをして、実は凛ちゃんの私服をめちゃくちゃ細かく観察していましたね。
「見ない」という選択が、彼なりの精一杯の防衛本能だったのが伝わってきて、書いているこっちもニヤニヤしてしまいました。




