第86話:親友へのSOSと、カレーライス。
「脱衣所での大惨事」から、いまだに立ち直れていない凛ちゃんと朝陽君。
家の中に漂う気まずさは、なかなか消えませんね。
パンク寸前の凛ちゃんは、ついに唯一の親友・陽菜ちゃんに助けを求めます。
午後三時を過ぎた。
作業部屋の空気は、朝陽くんが設置した「無香料・強力消臭剤」のおかげで、驚くほど無だ。
窓から入り込む風も、さっきまでの熱をさらっていくはずなのに、私の頭の中だけがずっと沸騰している。
「……描けるわけないじゃん、こんなの」
ペンを握ったまま、私はモニターを睨みつける。
ヒロインの髪を描こうとしても、気づくとさっき脱衣所で見た「フリーズした朝陽くんの顔」を思い出して、そのたびに「うわあああぁぁ!」と叫びながらペンを投げ出しそうになる。
『……どうだった?』
なんであんなこと聞いたの、私。
バカなの? 死ぬの?
羞恥心で指先まで震える。一人で抱えるには、この三日間の出来事はあまりに情報量が多すぎた。
私は震える手でスマホを掴み、陽菜にメッセージを送った。
唯一の友。そして、私と朝陽くんの関係に気が付いてるかもしれない人物。
凛: 陽菜、元気? 明日会いたい。
陽菜: お、そろそろパンクして連絡くる頃だと思ってたよ(笑)。
陽菜: おじいちゃん(笑)と何かあった?
相変わらず勘が良すぎ。
以前、朝陽くんにマッサージをしてあげたいけど、直接手で触れるのはダメと言われたため、「手を使わない方法ってないかな」と陽菜に相談したことがあった。
その時、陽菜は「誰にマッサージするの?」と聞いてきたため、「おじいちゃん!」と私は嘘をついたが、ナンパ事件から朝陽君との繋がりに気づき、それ以来、彼女の中で朝陽くんは「おじいちゃん」という不名誉なあだ名で定着している。
凛: ……何があったかは、明日話す。相談がある。
陽菜: いーよー! どっかで遊びながら話聞くよ。頼ってくれてうれしい!
凛: ありがと。じゃあ、明日ね。
スマホを置くと、少しだけ呼吸が楽になった。
「……よし。明日全部吐き出すんだから、今は描け、私!」
自分を鼓舞して、ようやくペンを走らせた。
午後六時半。
リビングに出ると、食欲をそそるスパイスの香りが漂っていた。
キッチンでは朝陽くんが、無表情でお玉を回している。
「あ、凛。お疲れ。……カレーだぞ」
「……お疲れ様。あ、うん。いい匂い」
昼間のあの「事故」があったから、お互いに視線を合わさない。
私はテーブルに並べられたカレーを見つめながら、切り出した。
「あの、朝陽くん。明日、陽菜と遊んでくるね」
「佐藤さんか。ああ、いいリフレッシュになるだろ」
「それで……今の状況。朝陽くんが私のサポーターだってことと、事情があって十日間だけ一緒に住んでるってこと、陽菜には話しておきたいんだけど。……いいかな?」
朝陽くんは手を止め、少しだけ考えてから頷いた。
「いいよ。佐藤さんなら隠し通す方が無理だしな。……というか、あの人ならもう、半分くらい正解に辿り着いてそうだし(笑)」
「……あはは、確かにね」
陽菜の鋭さを認めている朝陽くんの言葉に、少しだけ場が和んだ気がした。
夕食のカレーは、いつもより少し辛かった。
お互いに無言で、スプーンを動かす音だけが響く。
その後のルーティンは、もはや拷問に近かった。
お風呂。私はプレートをこれでもかと「赤」に叩きつけ、鍵も三回確認した。
そして、就寝前のマッサージ。
「…………」
「…………」
肩に置かれた朝陽くんの手。
いつもなら心地いいはずのその重みが、今はなぜか、熱を持った「異性」のものとして意識されてしまう。
朝陽くんの手も、どこか動きが硬い。指先が私の肌に触れるたび、彼がビクッとするのが伝わってきて、こっちまで爆発しそうになる。
「……よし、終わりだ。明日、楽しんでこいよ」
「……うん。ありがと。……おやすみ、朝陽くん」
這いずるように自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。
真っ暗な天井を見上げながら、私は祈るように目を閉じた。
明日。明日、陽菜に全部聞いてもらうんだ。
あの子ならきっと、このパニック状態の私に、何かまともなアドバイスをくれるはず……。
いや、絶対いじられるんだろうけど。それでも、この地獄の気まずさから救ってくれるのは、あの子しかいない。
三日目の夜。
新しいルールと、消えない残像を抱えたまま、私は深い眠りへと落ちていった。
第86話、ありがとうございました!
朝陽くん、もはや悟りを開く勢いで「見ない」を徹底していましたね(笑)。
一方で、陽菜ちゃんは相変わらずの切れ味。凛ちゃんの変化を秒で見抜くあたり、さすが親友です。
さて、次回は第87話。
女子会トーク全開!
「お姫様抱っこ」から「脱衣所事件」までを聞いた陽菜ちゃんの、容赦ない判定が下ります。
お楽しみに!
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