第85話:消臭と冷しゃぶ。
特大爆弾を投下して浴室へ逃げ込んだ凛ちゃん。
残された朝陽くんは、その答えを出す代わりに、なぜかキッチンで豚肉を茹で始めます。
二人のすれ違いと、最悪に気まずいけれど、どこか温かいランチタイムをお楽しみください。
「……バカ! 私のバカ! なんであんなこと聞いちゃったのよ……っ!」
脱衣所に再突入した私は、服を放り投げて浴室へ飛び込んだ。
シャワーを頭から浴びても、心臓のバクバクは一向に収まらない。
鏡越しに目が合った、あの瞬間の朝陽くんの顔。真っ赤になって、あんなに慌てて……。
「……あんなの見られたら、普通は絶交モノだよね。でも……」
不思議だった。
「死にたい」と思うほど恥ずかしいのに、彼に「見られた」こと自体を、心の底から嫌だと思えていない自分がいる。
むしろ、彼の中に「女の子としての私」の残像が刻まれたことに、どこか奇妙な高揚感さえ感じていて――。
一方、リビング。
僕は沸騰した鍋に、一枚ずつ丁寧に豚肉をくぐらせていた。
「……余計なことは考えるな。僕はサポーターだ。……サポーターなんだ」
自分に言い聞かせながら、茹で上がった肉を氷水へ放り込む。
キュッと締まる肉の感触が、僕の暴走しそうな理性をかろうじて繋ぎ止めていた。
シャワーを浴び終え、髪を乾かしてリビングへ戻ると、そこには「冷しゃぶ」の準備を整えた朝陽くんが立っていた。
「……上がったか。凛、一つ頼みがある。……部屋(寝室)、今から入ってもいいか?」
「えっ……いいけど、なんで?」
私は思わず身構えた。
まさか、さっきの「感想」を部屋でじっくり聞かされるんじゃ……。
そんな私の不安をよそに、朝陽くんはドラッグストアの大きな袋を抱え、神妙な面持ちで私の部屋へと足を踏み入れた。
「……失礼するぞ」
彼は部屋の四隅に、買ってきたばかりの「無香料・強力消臭剤」を手際よく設置し始めた。
「……ねえ、朝陽くん。何してるの?」
「……さっき、窓を全開にしてただろ。……それで気づいたんだ。僕の部屋の生活臭が、二度寝もできないほどのストレスになっていたのかもって…。」
朝陽くんは、真剣そのものの目で私を見た。
「不快な思いをさせて悪かった」
「……え」
違う。朝陽君の匂いを意識しすぎて心臓に悪いから換気しただけなの!
喉元まで出かかった言葉を、私は必死に飲み込んだ。
「……そこまでしなくていいよ、別に臭くないし……っ」
「遠慮するな。これは無香料だから、睡眠の邪魔はしないはずだ」
朝陽くんは私の制止を振り切り、カーテンにシュッシュと除菌スプレーを吹きかけ、窓を全開にした。
「一時間はこうしておこう。空気の入れ替え」
強引すぎるサポーターの献身に、私はただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
「……じゃあ、僕もシャワー浴びてくる。その間、部屋はそのままにしておいてね…。」
入れ替わりで朝陽くんが脱衣所へ消えた。
部屋が換気中のため、私はリビングのソファにポツンと座って待つことにした。
ベランダから入ってくる風が、カーテンを揺らす。
「……朝陽くん、結局さっきの質問に答えてくれなかったな」
『どうだった?』なんて、自分でもどうかしてたと思う。
でも、彼はどう思ったんだろう。
幻滅したのかな。やっぱり「だらしない」って呆れたのかな。
……でも、不思議だ。
男の子にブラジャー姿を見られるなんて、本来なら嫌なはずなのに。
「……あんまり、嫌じゃないのかもな。……私」
口に出して、また顔が熱くなった。
「……待たせたな」
シャワーから上がった朝陽くんと一緒に、遅めのランチが始まった。
メニューは、氷水で締めた冷しゃぶと、夏野菜の小鉢。
ポン酢の酸味が、気まずさでガチガチだった私たちの喉を、少しずつ潤していく。
「……おいしい」
「そうか。……さっぱりしたものの方が、今の時期はいいと思って」
朝陽くんは、チラリともこちらを見ようとしない。
「……あの、朝陽くん。三日後の花火、楽しみにしてるから」
「……ああ。ベランダ、一番綺麗に見えるように整えておく」
短い会話。
事故のせいで、私たちの間には新しい壁ができてしまったけれど。
それでも、朝陽くんの作ってくれた冷しゃぶの味は、三日間で一番優しく感じられた。
「……ごちそうさま。……よし、描くか!」
私は自分に気合を入れるように立ち上がった。
空気が完全に入れ替わった、無香料の作業部屋。
そこにはもう、彼の匂いは残っていないはずなのに。
ペンを握った私の指先には、まだあの廊下での「熱」が、かすかに残っている気がした。
第85話、ありがとうございました!
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