第81話:フレンチトーストと、隠しきれない寝不足。
共同生活三日目の朝。キッチンには、昨夜からじっくり準備していたフレンチトーストの、甘くて香ばしい香りが立ち込めています。
しかし、現れた凛ちゃんの目の下には、うっすらとクマが……。
「仕事の疲れ」だと思い込む朝陽くんと、「あなたのせいで眠れなかった」と言えない凛ちゃん。
噛み合わないけれど、温度だけは確実に上がっていく二人の朝をお楽しみください。
午前七時半。
わが家のキッチンは、バターと砂糖、そして焦げたメープルシロップが混ざり合った、暴力的なまでに幸福な香りに包まれていた。
「……よし、いい色だ」
フライパンの上で、厚切りの食パンがぷっくりと膨らんでいる。
一晩じっくりと卵液を吸わせたパンは、もはやパンというよりプリンに近い状態だ。これを弱火でじっくり、表面だけをカリッと焼き上げる。
三日目。慣れが出てくる頃だが、同時に疲れも溜まる時期だ。
「今日は糖分多めで行く。……これで凛のパフォーマンスも維持できるはずだ」
「……おはよぉ、朝陽くん」
寝室のドアが開き、凛が姿を現した。
だが、その足取りはいつになく重い。
「おはよう、凛。……って、どうしたんだその顔。顔色が悪いぞ」
顔は洗ったようだが、その瞳はどこか虚ろで、目の下にはうっすらとクマが浮かんでいる。
僕が顔を覗き込むと、凛は「ひゃいっ!?」と変な声を上げて、一歩後ずさった。
「な、なんでもないよ! その、どうしたんだろうね……あはは……」
「……仕事の疲れが溜まっているのかな……。 それとも、やはり僕が同じ家にいるのがストレスに……」
「違うの! そういうのじゃなくて! ……とにかく、大丈夫だから!」
凛は泳ぐような視線で、僕の作ったフレンチトーストに飛びつくように席に座った。
「……わぁ、すごい。ふわふわだね」
フォークを入れた瞬間、中からじゅわっと黄金色の卵液が溢れ出す。
凛が一口、それを口に運ぶ。
「……んん……おいしい……」
「そうか。……しっかり食べろ。一晩浸けておいた甲斐があったよ」
凛は黙々と食べ進めているが、その頬はなぜかずっと赤いままだ。
……そんなに熱かっただろうか。
それとも、昨日の作業で知恵熱でも出たのか?
凛の脳裏には、昨夜の言葉が繰り替えされていた。
ベッドに運ばれた時の腕の逞しさ。頭を撫でてくれた大きな手のひら。
(……このフレンチトースト、昨日の夜、私がソファーで寝てるときに作ってくれたんだよね……)
そう思うと、喉を通る甘さが、なんだか鼻の奥をツンとさせた。
「凛。ちょっとこっちを向いてみろ」
「えっ、あ、なに?」
僕は立ち上がり、凛の額にそっと手を当てた。
「ひゃあ……っ!?」
「……やっぱり少し熱いな。顔もずっと赤い。……凛、今日の午前中は思い切って作業を休まないか? 二時間くらい、二度寝するとすっきりするぞ。その方が、午後の効率も上がるはずだ」
「えぇっ!? に、二度寝なんて無理だよぉ……!」
(あの部屋、朝陽くんの匂いがするんだよ!? 昨日の今日で、そんなところで寝られるわけないでしょ!)
そんな凛の心の叫びを知る由もない僕は、さらに身を乗り出して彼女の顔を観察する。
「無理にとは言わないけど、健康管理も僕の仕事だからな。……少しでも休んだほうがいい。どこか痛むところはないか? 腕とか、腰とか」
「どこも痛くないから! ……もう、朝陽くんのバカ!」
凛はフレンチトーストを最後の一口まで詰め込むと、逃げるように寝室へ戻ろうとした。
ドアの取手に手をかけたところで、凛がピタリと止まった。
そして、振り返らずに小さな声で呟く。
「……朝陽くん。昨日の夜、……ありがとう。嬉しかったよ」
「……あ。ああ、別に、パスタくらいお安い御用だ。……気にするな。サポーターなんだから」
「…………。……もういい、おやすみ!」
バタン! と勢いよくドアが閉まる。
……パスタのお礼にしては、少し溜めがあったような気がするが。
「やっぱり、相当疲れてるんだな。ゆっくり休んでくれるといいけど」
僕は一人、ダイニングに残された空の皿を見つめた。
十日間のうち、三日目が始まった。
彼女の小さな「ありがとう」を反芻しながら、僕は次のサポートの計画を立てるために、ノートを広げた。
第81話、ありがとうございました!
朝陽くんの「おでこにタッチ」という無自覚な攻撃に、凛ちゃんの心臓はもう限界寸前です。
「昨日の夜」の解釈が、朝陽くん(=パスタ)と凛ちゃん(=お姫様抱っこ)で盛大にすれ違っているのがこの二人らしいですね(笑)。
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