第78話:プロの領域と、サポーターの静かな献身。
朝のハプニングでドタバタしたのも束の間、凛ちゃんは「プロ絵師」の顔へと切り替わります。
締め切り前の張り詰めた空気。
瀬戸くんは、彼女の邪魔をしないよう、けれど完璧なサポートをこなすべく、リビングで「音のない戦い」に挑みます。
朝食を終え、食器を下げる音が響くキッチン。
「……よし。朝陽くん、私、始めるね」
凛の声から、甘えたような響きが消えた。
彼女は自分のデスクトップPCと液タブが置かれた寝室……今は彼女の「仕事部屋」となった空間へ、迷いのない足取りで消えていった。
パタン。
猫のプレートが『仕事中』へと裏返される。
それと同時に、扉の向こうから規則的な「カツカツ、カツ」という音が聞こえ始めた。
「……始まったな」
僕はリビングで一人、居住まいを正した。
朝ようなのポンコツな凛はもういない。あの中にいるのは、数万人のファンを持つ一人の表現者だ。
まず、僕は掃除機を封印した。
代わりにクイックルワイパーを手に取り、忍び足でフローリングを磨き上げる。
彼女の集中力を削ぐような騒音は一切出さない。
次に、差し入れの準備だ。
「……作業中は、片手が塞がってるはずだ」
僕はキッチンの棚から、一番小ぶりなタッパーを取り出した。
メニューは、一口サイズのミックスサンドイッチ。
パンの耳を切り落とし、具材がこぼれないようにしっかりプレスする。
お手拭きタオルも忘れない。
手が汚れず、ポロポロとカスが落ちず、かつデバイスを触る指先に油分がつかないこと。
これが、僕が導き出したクリエイター向け食事だ。
飲み物は、カフェインが強すぎない麦茶を冷やしておく。
「頑張れ、凛」
心の中でだけ呟き、僕は自分の参考書を開いた。
正午を回り、僕は用意したサンドイッチと麦茶を持って、寝室のドアを静かにノックした。
「……凛。入るぞ」
返事はない。けれど、ペン音は止まらない。
僕はドアを数センチだけ開け、中の様子を伺った。
カーテンが閉められた暗い部屋。
モニターの青白い光に照らされた凛の横顔は、凄まじい熱量を帯びていた。
髪は適当なクリップでまとめられ、瞳は画面上の微細な線を追って激しく動いている。
朝の「寝ぼけ眼」と同じ人物とは到底思えない、神聖なまでの集中。
僕は何も言わず、机の端にある空いたスペースに、サンドイッチと飲み物をそっと置いた。
彼女の視線はこちらを向かない。けれど、僕が部屋を出ようとした瞬間。
「……ありがと、朝陽くん」
消え入りそうな、でも確かな声が背中に届いた。
「……ああ。無理はするなよ」
それだけのやり取り。けれど、言葉以上の信頼がそこにはあった。
夕方。
ペン音が止まり、しばらくして寝室のドアが開いた。
出てきた凛は、まるで魂が抜けたかのようにフラフラで、そのままリビングのソファに倒れ込んだ。
「……おつかれ。一区切りついたか?」
「……うん。朝陽くんのサンドイッチ、いつの間にか食べ終わってた。……すごく、美味しかったよ」
「なら良かった」
僕はキッチンへ向かい、レンジで温めておいた蒸しタオルを彼女に手渡した。
「これで目を休めろ。……飯、すぐ作るからな」
「……はぁ。天国だぁ……」
目元をタオルで覆い、凛が幸せそうに吐息を漏らす。
ただ隣にいるだけじゃない。
彼女が全力を出し切れる場所を作り、倒れた時に受け止める。
こんな僕だけど、この瞬間だけは、自分が凜の隣にいる意味を少しだけ信じられる気がした。
「……朝陽くん」
「なんだ」
「……明日も、そこにいてくれる?」
「……当たり前だろ。十日間って約束した」
「……そっか。……えへへ」
タオルの下で、彼女が小さく笑う。
二日目の夕暮れ。
静かなリビングに、穏やかな満足感が満ちていった。
第78話、ありがとうございました!
凛ちゃんのプロとしての顔と、それを支える瀬戸くんの「有能なサポーター」っぷり。
会話は少なくても、通じ合っている感じが伝わっていれば嬉しいです。
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