第65話:資料と、秘め事
資料作りもいよいよ中盤。
腕のラインの次は、イラストの要となる「首筋から鎖骨」にかけて。
仕事モード全開の凛ちゃんは、スマホを片手に普段の遠慮を忘れてグイグイ攻めてきます。
自分のスマホの中に朝陽くんの「際どい写真」を溜めていく凛ちゃんと、翻弄される朝陽くんの、密室でのひとときをお楽しみください。
「……よし、腕のパターンはこれくらいかな。次、お願い」
凛が液タブのペンを置き、代わりにデスクから自分のスマートフォンを手に取った。
リビングのエアコンは効いているはずなのに、熱気のせいか、それとも僕の気のせいか、部屋の温度が一段階上がったような気がする。
「次って、どこ?」
「首から、鎖骨。……あ、シャツのボタン、あと二つ外して」
「……は?」
思わず聞き返したが、凛は至って真面目な顔で、スマホのカメラアプリを起動している。
「影の落ち方を見たいの。服で隠れてると、骨格のつながりが分からないから。……ほら、早く」
「……分かったよ」
僕は溜息をつき、指示通りにボタンを外した。
胸元が大きく開くと、なんだか急に心許ない気分になる。
「……もう少し顎を上げて、右を向いて。……うん、いい感じ。あ、でも……」
凛がスマホを構えたまま、再び僕の目の前まで歩いてきた。
至近距離。
彼女の生身の瞳が僕を射抜く。
「……ここ、もう少し影が欲しいな」
凛の細い指先が、僕の首筋から鎖骨のラインをそっとなぞった。
「……っ」
「動かないで。……朝陽くんって、意外とここ、しっかりしてるんだね」
指先から伝わる温度。
カシャッ、カシャッ、と至近距離で響くスマホのシャッター音。
彼女のスマホのフォルダに、僕の鎖骨や首筋が記録されていく。
普段、僕に世話を焼かれている時の「ポンコツな凛」の面影はどこにもない。
そこにいるのは、僕の体温さえも画像として切り取ろうとする、鋭い眼差しを持った「絵師」だった。
「……よし、角度を変えてあと数枚。……あ」
ポーズを固定して数分。
僕の肩に力が入っているのに気づいたのか、凛が慌ててスマホを下げて身を引こうとした。
「ごめん、一回休んで! 根詰めすぎちゃった」
そう言って、彼女が後ろに下がろうとした瞬間。
床に置いてあった作画用の専門書の山に、彼女の足が取られた。
「わっ……!?」
バランスを崩し、後ろに倒れそうになる凛。
「危ない……っ!」
僕は咄嗟に椅子から立ち上がり、彼女の腰を抱き寄せるようにして抱きとめた。
狭い作業部屋に、二人の重なった呼吸だけが響く。
抱き寄せた彼女の身体は、驚くほど細くて、柔らかかった。
僕の腕の中に、完全に収まってしまうほどに。
「……あ」
凛が僕の胸元に顔を埋めたまま、固まる。
手元で光るスマホの画面には、さっきまで撮っていた僕の首筋が映し出されていた。
「……だ、大丈夫か?」
「……ぅ、うん。……ごめん、なさい」
凛が顔を上げると、その頬は真っ赤に染まっていた。
近すぎる距離。
僕が掴んでいる彼女の腰の感触と、僕のシャツをぎゅっと握る彼女の指先。
「……あ、あの! 撮影、もう終わり! 最高の資料、撮れたから!」
凛が慌てて僕の腕から飛び退き、机に向き直った。
その背中は、どこか落ち着かない様子で小刻みに揺れている。
「……そうか。役に立ったなら良かったよ」
僕は乱れたシャツのボタンを留め直し、自分を落ち着かせるように深く息を吐いた。
「……ふぅ」
撮影が終わり、いつもの「世話を焼く」サポーターとしての立場に戻れたことに、少しだけ安堵する。
凛の方を見ると、彼女は机に向かったまま、スマホの画面をじっと見つめていた。
……プロモードが解けた、いつもの、少しポンコツな凛の顔。
でも、その横顔が夕日に照らされて、やけに綺麗に見えて――。
僕は思わず、彼女の方を無言で見つめてしまった。
ガタッ。
凛が急に振り返る。
その手に持ったスマホのレンズが、一瞬だけ僕に向けられた。
(カシャ)
シャッター音が響く前に、凛が慌ててスマホを胸に抱え込む。
……今、撮られたのか? 音はしなかった気がするが、彼女の挙動があまりに不自然だ。
「……おい。今、僕のこと撮ったか?」
「えっ!? 撮ってないよ! 全然、気のせいだし! ……ただ、スマホの画面に朝陽くんが映っただけだし!」
凛は顔を真っ赤にして、ありえない言い訳を口にした。
……絶対撮っただろ、その顔。
「……変な顔してたら消せよ」
「消さない! ……じゃなくて、撮ってないから! ……もう、朝陽くんのバカ!」
凛はスマホを胸に抱えたまま、はにかむように、そしてどこか嬉しそうに笑った。
(……消すわけないじゃん。……だって、今の朝陽くん、すごく……)
彼女の唇が、僕には聞こえない小さな囁きを形作る。
秘密を共有し、お互いの深い場所に踏み込むたびに。
僕たちは、元いた「ただの隣人」という場所へは、もう戻れなくなっていく。
夏休みの午前中。
火照った僕たちの頬を、冷房の風が静かに撫でていった。
第65話、ありがとうございました!
朝陽くんが油断した瞬間の、彼女に向けた「素」の顔を、どうしても残しておきたくて、思わずシャッターを切ってしまった凛ちゃん。
「撮ってない!」という必死のごまかしと、内心の「消すわけない」という想いが良いですね。
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