第59話:深夜の侵入者と、お気に入りの場所。
膝枕という特大イベントのせいで、自室に戻っても落ち着かなくて眠れない朝陽。
ようやく落ち着いてきたところで聞こえてきたのは、隣室からのSOSでした。
泥棒か、暴漢か。焦って飛び込んだ彼を待っていたのは……。
痺れた足がまだジンジンするけれど、歩けないほどじゃない。
「……冷蔵庫に豚肉とキャベツがあるから、適当に野菜炒めでも作るか。」
「私も手伝う!」
「いや、大丈夫だよ。疲れてるだろ?ゆっくりしてて」
キッチンに立ち、野菜を切る。
フライパンから上がる醤油の焦げる香りが、さっきまでの甘い空気を「生活」の匂いに塗り替えていく。
「はい、できたぞ」
「わぁ、美味しそう……! いただきます!」
ご飯と味噌汁、それに適当に作った野菜炒め。
なんてことない献立だけど、二人で並んで食べると、不思議と箸が進んだ。
凛は「これこれ、この塩気が欲しかったんだよ」なんて言いながら、幸せそうに頬を膨らませていた。
食後、凛は「お礼に」と皿洗いを買って出た。
その後、リビングのソファーで再び資料動画を見始めたのだが、彼女はしきりに首を回したり、肩を叩いたりしている。
「……肩、凝ってるのか?」
「……うん。ずっと同じ姿勢だったからかな。石が入ってるみたいに重い」
確かに、仕事して特訓もだからな…。
特訓の量とタイミングは考えないとな……。
「……ちょっと貸してみろ。少しは楽になるかもしれないぞ」
「え、いいの?」
凛が僕の前に背中を向けて座る。
パーカー越しに触れた彼女の肩は、本当に石のようにガチガチだった。
「……うわ、何これ。酷いな」
「あいたた……。朝陽くん、力入れすぎ……っ」
「ごめんよ。一回お風呂入っておいで」
「わかった!」
数十分後、お互いお風呂を済ませて集合する。
指先に力を込めて、首筋から肩甲骨にかけてゆっくりと揉み解していく。
すぐ近くで、凛の「ん……」という小さな吐息が漏れる。
膝枕の時とはまた違う、指先から伝わる彼女の体温と、柔らかい背中の感触。
意識しないようにすればするほど、鼻をくすぐる彼女の香りが強調される気がして、僕は無意識に奥歯を噛み締めた。
「……あ、そこ……。すごく、気持ちいい……」
「そうか。……ならよかった」
「……朝陽くんの手、あったかいね」
ぽつりと言った彼女の声が、静かな部屋に溶けていく。
そのまま数分。凛の体が少しずつリラックスして、僕に預けられる重みが増していく。
「……よし、これくらいでかな」
「ありがと。……なんか、体が軽くなった気がする」
凛は名残惜しそうに立ち上がり、自分の部屋に戻る準備を始めた。
「じゃあ、また明日ね、朝陽くん。」
「ああ。また明日な」
ガチャン、とドアが閉まる音。
一人になった部屋で、僕は自分の指先に残った熱を確かめるように、拳を握った。
この数分後、彼女の部屋からあの絶叫が聞こえてくるなんて、この時はまだ思ってもみなかった。
ベットに入っても、しばらくは寝付けなかった。
どうにも落ち着かない。
「嫌だったらどかしてる」なんて、よくあんな恥ずかしいことが言えたなと、自分でも呆れる。
「……寝よ」
無理やり目を閉じて数分。ようやく意識が遠のきかけた時だった。
携帯が鳴る。
凜から電話だ。
(何かあったのか?)
「もしもし、どうした?」
「朝陽君助けて!!」
耳をつんざくような悲鳴が聞こえてきた。
一気に目が覚める。
僕は反射的にベッドを跳ね起き、机の上の合鍵を掴んで部屋を飛び出した。
パニックになっている凛の顔が浮かんで、心臓が嫌な跳ね方をする。
「凛! どうした!」
鍵を開けて踏み込むと、凛はリビングのソファーの上に立ち尽くして震えていた。
「あ、朝陽くん……! 助けて、あそこに……!」
彼女が指差す先、壁をカサカサと這っていたのは、五センチくらいのアシダカグモだった。
都会のマンションなら別に珍しくもないやつだ。
「……なんだ、蜘蛛か。心臓止まるかと思ったぞ」
「『なんだ』じゃないよぉ! 怖い、無理……あんなのと一緒に寝るなんて絶対無理……!」
半泣きの凛を横目に、僕はキッチンから適当なカップと厚紙を持ってきた。
さっと蜘蛛を閉じ込めて、ベランダの外へ逃がす。
「ほら、もういないぞ。大丈夫だ」
「……ふぅ。……死ぬかと思った……」
凛はソファーに座り込み、まだ肩を震わせている。
本気で怖かったらしく、顔色が悪い。
「しばらく居てやるから落ち着きな。……でも、僕がいなかったらどうするつもりだったんだ? 今までだって、こういうことはあっただろ」
「……見なかったことにして、別の部屋に逃げてた。でも、今は……朝陽くんが隣にいるって分かってたから、つい呼んじゃった」
凛は僕を見上げ、弱々しく笑った。
その顔を見ていたら、なんだか柄にもないことが聞きたくなった。
「……なぁ、凛。もしも、だよ」
「ん?」
「もし、僕が急にいなくなったら……連絡も取れなくなって、どこに行ったか分からなくなったら、どうする?」
半分は冗談のつもりだった。
「無理!」
即答だった。
凛の瞳が、ふいに真面目な光を帯びて僕を射抜く。
その声には、冗談では済まされないような温度がこもっていた。
「いなくなったら、私、自分でもどうなるか分からないもん」
「…もしいなくなったら…探し出すよ。絶対」
「え?」
「お父さんとお母さん……それに、おじいちゃんの力も全部借りて。日本中、どこに逃げても見つけ出して、捕まえるから」
凛の口から出た「捕まえる」という言葉。
それが妙に生々しく響いて、僕は少しだけ背筋が寒くなった。
今の凛の目は、笑っていない。
「……お、おじいちゃんまで使うのか? 仲良くないって言ってただろ」
「背に腹は代えられないもん。失うくらいなら、嫌いな親戚にだって頭下げるよ」
凛はふっと表情を緩めて、いたずらっぽく笑ってみせた。
でも、その瞳の奥にある執着は、たぶん本物だ。
もし僕が本当に姿を消したら、彼女は本当に「捜索網」を敷くのかもしれない。
「……おじいちゃんって、そんなにすごい人なのか?」
「んー、まあ。隣の県なら、名前出せば大抵の人は知ってるかも」
彼女がさらりと言った言葉。
その時はまだ、彼女の家が「ちょっと有名な地主」くらいにしか思っていなかった。
「あ、そうだ。……クッキー、一個だけ残しておいたの。食べる?」
「……食べる。蜘蛛のせいで、ドッと疲れたし」
深夜の静かな部屋で、二人で最後の一つのクッキーを分けた。
この時、凛が口にした「おじいちゃん」の正体が、僕たちの生活を揺るがすような存在だと知るのは、そのすぐ後のことだった。
第59話、ありがとうございました。
「もしも」の問いかけに対する凛の反応が、朝陽への依存の深さを物語っていますね。
それだけ、今の生活が気に入っているのでしょうね。
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