第58話:クッキーと、痺れる足。
焼き立てのクッキーって、実はすぐ食べちゃダメなんですよね。
「待て」を食らっている凛と、理屈で黙らせようとする朝陽。
後半は、ちょっと距離感を間違えた二人の、気まずくて甘い話です。
「……ねえ、もういいでしょ。一個だけ!……ダメ?」
天板に並んだクッキーをじーっと見つめたまま、凛がうわ言のように呟く。
部屋中に充満したバターの匂いのせいで、彼女の空腹ゲージはとっくに限界らしい。
「ダメ。焼き立てはまだ中がふにゃふにゃだろ。冷めるまで待たないと、サクサク感は出ないんだよ」
「えー……。目の前にあるのに、お預けなんて酷すぎる」
凛はソファーに突っ伏して、クッションに顔を埋めた。
「これも料理の工程の一つなんだから、我慢しような」
「……料理って過酷なんだね」
「そんな大げさな。……ほら、あと数分。」
「……うぅ、わかったよ。……いいよ、待つよ。その代わり、一番いい形のやつ、私がもらうからね」
「はいはい。わかったよ」
タイマーのチクタクという音が、やけに大きく聞こえる。
不器用な彼女が、粉まみれになって必死にこねた生地。それが少しずつ「クッキー」という完成品になっていくのを、僕たちは並んでじっと待っていた。
「……あ。サクサク。……これ、すごい。本当に美味しい」
数分後。ようやく許可を出した僕の前で、凛がクマ型のクッキーを誇らしげに掲げた。
少し形は歪だけど、味は文句なしだ。
「だろ。計量さえサボらなきゃ、お菓子は裏切らない」
「朝陽くんのスパルタ教育のおかげだね。……はい、一個あげる」
差し出されたクッキーを口にする。
バターの香りと、程よい甘さ。
それを「美味しい」と笑いながら言い合える相手がいるだけで、ただの自炊が特別なイベントみたいに思えてくるから不思議だ。
その後、二人で手分けして洗い物を済ませた。
ボウルを洗って、作業台を拭く。狭いキッチンで肩がぶつかっても、もう「あ、ごめん」の一言で済んでしまう。お互いの距離感に、いつの間にか慣れてしまっていた。
「……ちょっと、休憩」
リビングに戻ると、凛がソファーの端っこにどさりと座り込んだ。
慣れない作業で疲れたのか、お腹が膨れて眠くなったのか。
一緒に動画を眺めていた彼女の目が、だんだんとトロンとしてくる。
「凛? 寝るなら自分の部屋戻れよ」
「……んー、あと、ちょっとだけ……」
生返事。
そのまま、彼女の頭がゆっくりと僕の肩に預けられた。
……までは良かった。だが、そこからズルズルと体勢が崩れていき、気づいた時には、彼女はソファーに横たわって僕の太ももを枕にしていた。
「……おい、凛」
ゆすってみたが、規則正しい寝息が返ってくるだけだ。
完全に落ちてる。
膝の上に乗った頭の重み。細い髪の毛が肌に触れて、くすぐったい。おまけに、彼女の指先が僕のシャツの裾をぎゅっと握りしめている。
(……これ、どうすればいいんだよ)
無理に動かして起こすのも気が引けるし、かといってこの体勢は僕の心臓に悪い。
結局、僕は石像のように固まったまま、テレビの音を最小にしてやり過ごすことにした。
……まあ、いいか。特訓、頑張ってたし。
三十分くらい経った頃だろうか。
「……ん、……ふぇ?」
膝の上で、凛のまつ毛がパチパチと震えた。
ゆっくりと開かれた瞳が、僕の顔をじっと見つめる。
一秒、二秒……。
「……あ」
状況を理解した瞬間、凛が弾かれたように跳ね起きた。
顔面が、見る見るうちに真っ赤に染まっていく。
「え、あ、あ、朝陽くん!? ごめん! 私、寝てた!? 寝てたよね!?」
「ああ。一時間くらいバッチリ熟睡してたぞ。おかげで僕の左足、もう感覚ない」
「うわあああ、ごめんなさい! 最悪だ……私、何やってるの……」
凛はパニックになりながら、乱れたポニーテールをめちゃくちゃに直している。
さっきまでの「プロ絵師」の面影はどこにもない、ただの動揺した女の子だ。
「……嫌、だった?」
俯いたまま、消え入りそうな声で聞いてくる。
「……嫌だったら、もっと早くどかしてる」
僕がぶっきらぼうに答えると、凛は一瞬だけ顔を上げた。
目が合うと、彼女はすぐに目を逸らして、もぞもぞとソファーの端へ移動した。
「……なんか、お腹空かない?」
少しの沈黙のあと、凛がお腹をさすりながら言った。
「さっきクッキー食べたばっかだろ」
「甘いもの食べると、しょっぱいものが食べたくなるの。これ、世界の真理だよ」
(確かに)
もっともらしい理屈を並べる彼女に、僕は納得してしまった。
さて、晩御飯作るか。
第58話、ありがとうございました。
膝枕って、される方はもちろん、する方も結構大変ですよね。
「嫌だったらどかしてる」という、朝陽なりの精一杯のデレでした。
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