第57話:甘い香りと、一つのイヤホン。
「名前のない契約」を交わした翌朝。朝陽が目を覚ますと、世界が少しだけ違って見えました。
特訓二日目のテーマは、まさかの「お菓子作り」です。
不器用な凛が粉まみれになりながら格闘する姿と、焼き上がりを待つ間の贅沢な静寂。
一つのイヤホンが繋ぐ、二人の心の距離をお楽しみください。
枕元のスマホが、時刻が八時を回ったことを知らせる。
カーテンの隙間から差し込む夏の強い光に目を細めながら、僕はゆっくりと体を起こした。
(……あ、そうか。昨日、あんなこと言ったんだっけ)
寝ぼけた頭に、昨夜の記憶がじわじわと染み込んでくる。指先に残る、凛の細い小指の感触。
「お互いが必要とする限り、このままでいる」
名前のない契約。少しだけ重くて、けれどこの上なく温かい、僕たちだけの秘密の約束だ。
ぼんやりと天井を眺めていると、玄関の方から微かに金属音が聞こえた。
ガチャッ、という解錠の音。続いて、カチャリとドアが開く音。
「……おはよ、朝陽くん。起きてる?」
リビングから、聞き慣れた声がした。
「……おはよ。今起きたところだ」
僕がベッドから出ると、キッチンの方からパタパタと足音が近づいてきた。
寝室のドアからひょこっと顔を出したのは、パーカーを羽織っただけの無防備な格好の凛だった。
「やっぱり。さっき自分のベランダから見たら、まだカーテン閉まってたから。……はい、これ。お近づきの印」
「お近づきの印って、昨日まで一緒にいただろ」
凛が差し出してきたのは、コンビニの袋に入ったヨーグルトだった。
合鍵を使って、当たり前のように入ってくる。
そこに遠慮や気まずさはもうない。
僕は、そんな「当たり前」になった日常に、密かな心地よさを感じていた。
朝食のトーストを食べながら、僕は今日の予定を告げた。
「今日は、お菓子作りをしようと思う」
「お菓子? 料理じゃなくて?」
「お菓子作りは計量が命。正確に測って、手順通りに進める。これ、料理の基本を覚えるのにちょうどいいんだよ。……それに、凛、甘いもの好きだろ?」
「……大好き」
凛は嬉しそうに、残りのパンを口に放り込んだ。
お昼過ぎ。買い出しを終えた僕たちは、エプロンを締めてキッチンに立った。
今日のメニューは、シンプルだけど奥が深い型抜きクッキーだ。
「……ねえ、朝陽くん。これ、本当にまとまるの?」
カウンターで、凛が途方に暮れたような声を上げた。
ボウルの中では、小麦粉とバターがバラバラのままだ。
「根気強く混ぜるんだ。バターが溶けてくれば、ちゃんと生地になるから」
「……もう腕が痛い。」
そう言いながらも、凛は一生懸命にヘラを動かしている。
だが、案の定というか、不器用な彼女が勢いよく混ぜるたびに、小麦粉がふわりと舞い上がった。
「あ、ちょっと……わわっ!」
「凛、落ち着けって」
気づけば、彼女の頬には白い粉がひと筋、まるでチークのように付着していた。さらには、ポニーテールにしたはずの髪の先まで白くなっている。
「……凛、顔」
「えっ、どこ?」
慌てて自分の顔を触ろうとする彼女の手もまた、粉だらけだ。
僕は苦笑しながら、キッチンペーパーを濡らして彼女の頬に手を伸ばした。
「じっとしてろ。……ほら、ここ」
「あ……」
至近距離で目が合う。
濡れたペーパーが肌に触れる冷たさと、僕の指先がかすめる熱。
凛は小さく息を呑み、金縛りにあったように動かなくなった。
そのまま数秒。彼女の耳たぶが、みるみるうちに赤く染まっていく。
「……ありがと。……なんか、私って本当に不器用だね」
「そんなことない。初めてなんだから当たり前だろ。……ほら、生地がまとまってきたぞ。次は型抜きだ」
僕はあえて何でもないふりをして、彼女を次の工程へと促した。
型抜きされた不揃いなクッキーたちが、オーブンの中へと吸い込まれていく。
「180℃で15分。……よし、あとは待つだけだ」
キッチンにタイマーをセットし、僕たちはリビングのソファーに並んで腰を下ろした。
部屋には、微かに小麦粉の粉っぽさと、これから始まる甘い予感の香りが漂っている。
「……疲れちゃった」
凛がソファーの背もたれに深く体を預け、心地よさそうに目を閉じる。
「でも、なんだか楽しいね。誰かと一緒に何かを作るのって」
「そうか。……あ、そうだ。凛の仕事の資料になるかもって言ってた動画、新着が来てたぞ」
僕はスマホを取り出し、お気に入りのイラストレーターが投稿したメイキング動画を開いた。
「見たい!」と身を乗り出す凛。
僕は自分のワイヤレスイヤホンの片方を、彼女に差し出した。
「……使うか?」
「いいの? ……じゃあ、半分こ」
凛が僕の手からイヤホンを受け取り、左の耳に装着する。僕は右の耳に。
一つの音を共有するために、僕たちは自然と頭を寄せ合う形になった。
画面の中で、鮮やかな色彩がキャンバスを埋めていく。
イヤホンからは、落ち着いたBGMとペンの走る音が流れている。
右耳からはデジタルの音が、左耳からは凛の衣擦れの音と、時折触れ合う柔らかな肩の感触が伝わってくる。
僕たちは、どちらからともなく距離を詰めていた。
彼女のポニーテールの先が僕の頬をくすぐり、彼女の吐息が僕の腕に微かに触れる。
いつもなら「近すぎる」と理性が警報を鳴らすはずなのに、今はオーブンから漂い始めたバターの甘い香りが、その境界線を曖昧にさせていた。
「……朝陽くん」
「ん?」
「……これ、ずっと終わらなきゃいいのにね」
動画のことなのか、それとも、この待ち時間のことなのか。
彼女の真意を問う前に、キッチンで「ピピピッ」とタイマーが無機質な音を立てた。
「あ……焼けたかな」
凛が少しだけ名残り惜しそうにイヤホンを外す。
僕の耳からも、音が消えた。
オーブンの扉を開けると、黄金色に焼き上がったクッキーが、香ばしい湯気と共に姿を現した。
不格好な形のクマのクッキーを指差して、凛が子供のように笑う。
「……ねえ、これ見て。朝陽くんに似てるね」
「どこがだよ」
「なんとなく。……優しそうなところかな」
窓の外、夕暮れ時の空が、クッキーと同じ優しい色に染まり始めていた。
第57話、お読みいただきありがとうございました!
合鍵を使って当然のように入ってくる凛ちゃん。もう「お隣さん」という言葉では片付けられないほど、二人の生活は溶け合っていますね。
「イヤホン半分こ」のシーン、二人の距離感が物理的にぐっと近づいたと思います。
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