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隣のクラスの「氷の令嬢」が、隣の部屋で空腹のあまり倒れていた件。〜胃袋を掴まれた彼女が、俺の前でだけ「ふにゃふにゃ」になるまで〜  作者: 比津磁界
第1章

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第56話:名前のない契約

初めての料理特訓を終え、並んで食べた生姜焼き。

「自立」という言葉が、不器用な彼女に「別れ」を予感させてしまったようです。

朝陽が語る、自立の本当の意味。そして、二人が交わす「契約」。

食卓には、空になった皿が二つ。

生姜と醤油の香ばしい余韻が、狭いリビングに心地よく停滞している。

けれど、凛の視線はさっきから自分に向けられたままだ。


「……ねえ、朝陽くん。本当に行かない?」


消え入りそうな声が、僕の胸を静かに突いた。

「……ここからいなくなろうなんて、一度も思ったことないよ」

僕は努めて穏やかに、けれど一文字ずつ噛み締めるように言った。


「家事を教えているのは、僕がいなくなった時のためじゃない。……凜が、凜自身の生活を自分の手で守れるようになってほしいからだ」

「…………」

「これは、凜を見捨てる準備じゃない。凜が好きなものを食べて、清潔な部屋で、安心して仕事ができる……そんな毎日を、誰かに依存しなくても続けられる力をつけてほしい。それが、サポーターとしての僕の願いなんだ」


凛がゆっくりと顔を上げた。

その瞳には、不安と、それ以上の熱い何かが混ざり合って揺れている。


「じゃあ……私が全部一人でできるようになったら、朝陽くんは何のためにここにいてくれるの?」


「…………」

今度は僕が詰まる番だった。

「……『できないから一緒にいる』んじゃなくて、『できるけど、それでも一緒にいたい』。……そう思えるようになるのが、本当の意味で対等な関係だと思わないか?」


「……対等、な関係」


「ああ。凜が完璧に料理をマスターしても、僕がここにいたいと思う理由は、他にいくらでもある。例えば……凜が『美味しい』って笑うのを見てるのが、僕も嬉しいから、とか。そういう、単純な理由だよ」


僕の言葉を聞いた瞬間、凛は弾かれたように小さく肩を震わせた。

大きく見開かれた瞳が、戸惑うように、そして確かめるように僕の顔をじっと見つめる。

やがて、その白い頬が夕焼けよりも深い朱色に染まっていくのが分かった。

彼女は耐えきれなくなったように視線をテーブルの端へと逃がし、ぎゅっと自分の服の裾を握りしめた。


「……っ、そんなこと、さらっと言わないでよ……」


消え入りそうな呟きのあと、彼女は自嘲気味に、けれどどこか愛おしそうに唇を噛んだ。


「……わがままだよね、私」


凛は少しだけ、困ったような、けれど嬉しそうな顔で笑った。

「朝陽くんがいなくても生きていけるようになりたいって思う反面、一生、朝陽くんに甘やかされていたいとも思ってる。……自分の中に、二人の私がいるみたい」


「それでいいんじゃないか。僕も、凜を自立させたいと思いながら、凜が『美味しい』って言うたびに、このままでもいいかなって思っちゃうし…」


僕たちは、どちらからともなく小さく笑い合った。

窓の外、夕闇が街を包み込み、街灯がポツポツと灯り始める。

このリビングだけが、世界から切り離された秘密基地のように感じられた。


「……じゃあ、契約。しよっか」

凛がテーブル越しに、小指を差し出してきた。


「契約?」

「うん。名前はないけど、特別なやつ。……卒業するまで。それから、その先も。お互いが必要だって思う限り、このままでいること。……家事を覚えたからって、卒業したからって、勝手にいなくなるのは禁止」


「……厳しいな」

「当たり前でしょ。私の専属サポーターなんだから」


僕は苦笑しながら、その細い小指に自分の小指を絡めた。

指先から伝わってくる、微かな震えと確かな体温。

「分かった。……契約成立だ」


「よし。じゃあ、契約の第一歩だ。皿洗い、一緒にやるぞ」

「えー、洗うのも特訓?」

「当然だろ。食べたら片付ける。そこまでが料理だ」


僕は凛をキッチンへと誘った。

二人で並んで立つには、このキッチンは少しばかり狭すぎる。

肘がぶつかり、腕が触れ合うたびに、凛が「あ」と小さく声を上げる。


「水、冷たくて気持ちいいね」

「ああ。……でも、冬は大変だぞ。お湯が出るまで時間がかかるし」

「その時は……朝陽くんが何とかしてくれるんでしょ?」

「……努力はするよ」


水の音と、食器が触れ合うカチャカチャという音。

なんでもない日常の音が、今はどんな音楽よりも愛おしく聞こえた。


(……この関係を、なんて呼べばいいのかはまだ分からない。でも、今はこれでいい。)

第56話、お読みいただきありがとうございました!

朝陽くんの真っ直ぐな言葉に、思わず顔を真っ赤にしてしまった凛ちゃん。

「さらっと言わないでよ」という言葉に、彼女の動揺と喜びが詰まっていましたね。


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