第55話:おやつ?と令嬢の決意
嵐が去った後の、少し湿り気を帯びた静かな午後。
「怖いから一緒にいて」という凛の願いで、一緒に作業することになった朝陽。
凛がプロのイラストレーターとしてペンを走らせる傍らで、朝陽が編み出す「凛専用・自立マニュアル」。
そしてついに幕を開ける料理特訓では、密着した二人の距離感に心拍数が跳ね上がります。
「ふぅ……。ごちそうさまでした。……美味しかったぁ」
「おやつ」にしては少し重めの回鍋肉を完食した凛が、幸せそうに息を吐いた。
窓の外では、あれほど猛威を振るっていた雨も上がり、雲の切れ間から夏の強い陽光が再び地上を照らし始めている。けれど、まだ遠くの方で「ゴロゴロ……」と微かな余韻が響くたび、彼女の肩はビクッと小さく跳ねる。
「……雷、もう大丈夫そうだな」
「うん、多分。……でも、まだちょっと怖いかも」
凛が上目遣いに僕を見る。
「……あのさ、朝陽くん。私、リテイクの続き終わらせなきゃなんだけど……。まだ怖いから、仕事終わるまで私の部屋で隣にいてくれない、かな?」
「……いいよ。僕も午後からはやることがあるしな」
僕は自分の部屋から、昨日買ってきた初心者用の料理本と、一冊の真っさらなノート、そして愛用のシャープペンシルを手に取った。
凛の部屋は、先日までの大掃除のおかげで、見違えるほど整然としていた。
彼女は机に向かい、液晶タブレットを点灯させる。僕はそのすぐ後ろにあるソファーに陣取り、ノートを広げた。
トントン、トントン……。
彼女が専用のペンで画面を叩く、小気味よい音が響き始める。仕事モードに入った彼女の横顔は、さっき布団の中で震えていた姿が嘘のように凛々しい。
(……僕も、負けてられないな)
僕は料理本をめくりながら、ペンを動かした。
作成するのは『凛専用・家事自立マニュアル』。
彼女の不器用さ、手の小ささ、そして集中しすぎると食事を忘れる性格……すべてを考慮した、世界に一つだけのレシピ集だ。
第1章:包丁の基本
指は絶対に『猫の手』にすること。
玉ねぎは、涙が出る前に一気に切る。
第2章:お味噌汁の黄金律
顆粒出汁でもいいから、必ず使うこと。
具材は、火の通りが同じものを組み合わせる。
彼女の作業音をBGMに、僕の思考は深まっていく。
どうすれば、僕がいなくても彼女が「美味しい」と思える日々を送れるか。
それを考えることは、どこか誇らしく、そして、少しだけ寂しい作業だった。
時計の針が刻み、西日が部屋をオレンジ色に染め上げた17時。
「……っし、終わったぁぁぁ!!」
凛が両手を高く上げて伸びをする。
「お疲れ様。……こっちも、ちょうど完成だ」
僕がノートを閉じると、彼女は「え、何それ?」と興味津々に覗き込んできた。
「今日から始める『家事特訓』のマニュアルだよ。……さて、夕飯の支度だ」
「……包丁、怖いんだけど」
「大丈夫だ。僕が見てる」
僕の家のキッチン。エプロンを締めた凛は、まるで爆弾でも扱うかのように包丁の柄を握っていた。
最初のメニューは、和食の基本である『お味噌汁』と、ご飯が欲しくなる『豚の生姜焼き』。
まずは味噌汁だ。
「豆腐は、手のひらの上で切るんじゃなくて、まずはまな板の上でいいぞ」
「うん……こう? あ、ちょっと崩れちゃった」
「いい。問題ないよ」
次に、生姜焼きの準備に取り掛かる。
玉ねぎを薄切りにする工程で、案の定、彼女の手元が危うくなった。
「凛、危ない。……ちょっと貸して」
僕は後ろから彼女を包み込むようにして、その細い右手を、自分の手で上から重ねた。
「え……あ、朝陽くん……?」
凛の背中が、目に見えて強張る。
「……力、抜いて。包丁は押し切るんじゃなくて、手前に引くんだ」
耳元で囁くように教えると、彼女の耳たぶがみるみるうちに赤くなっていくのが分かった。
僕の手のひらを通じて伝わってくる、彼女の体温。そして、生姜の爽やかな香りと、少しだけ混ざる彼女の石鹸の匂い。
教える側の僕も、自分の心臓がいつもよりうるさく鳴っていることに気づかないふりをした。
「……そ、そうなんだ……。引く、んだね」
「ああ。……よし、いいリズムだ。そのまま一気にいこう」
フライパンに火を入れ、肉を焼く。
ジャァァッ! という景気の良い音と共に、生姜、醤油、みりんの混ざり合った香ばしい香りが立ち上る。
「わぁ、いい匂い……! 私が作ったのに、お店みたいな匂いがする!」
凛の瞳が、パッと明るく輝いた。
幸い怪我をすることもなく、食卓には温かいご飯、わかめと豆腐の味噌汁、そして照り輝く生姜焼きが並んだ。
「……いただきます」
自分たちで作った夕飯。
凛は、自分が焼いた肉を慎重に口に運んだ。
「…………美味しい」
噛み締めるたびに、彼女の表情がとろけていく。
「ご飯に合う。……お味噌汁も、ちゃんと味がする。朝陽くんが作ってくれるのと同じくらい、美味しいよ」
「それは良かった。ご飯とお味噌汁、それにおかずが一品あれば、とりあえず人間は生きていけるからな。……これからも、毎日一つずつ教えていく。夏休みが終わる頃には、一人前だぞ」
僕は、彼女の「自立」を願って、最高の笑顔でそう言った。
けれど。
「…………」
喜ぶと思っていた凛が、不意に箸を止め、俯いた。
その顔には、先ほどまでの達成感は消え、深い霧のような寂しさが漂っている。
「……どうした? 味が濃かったか?」
「……ううん。……ねえ、朝陽くん」
凛は顔を上げず、ぽつりと呟いた。
「……全部、覚えたら。私が一人で何でもできるようになったら……。朝陽くん、いなくなっちゃうの?」
「……え?」
予想外の問いかけに、言葉が詰まる。
「いなくなるって……。まだ卒業までは時間があるし、引っ越す予定もないよ」
「……卒業したら?」
彼女の視線が、僕の瞳を射抜くように真っ直ぐに向けられた。
「卒業して、私が完璧に家事を覚えたら……もう、私には用はないって言って、どこか行っちゃうの? ……もう、私のためにご飯、作ってくれないの?」
「……先のことは、まだ誰にも分からないだろ」
僕は、できるだけ冷静に、現実的な言葉を選んだ。大学生と高校生。数年後の未来なんて、約束できるほど僕たちは大人じゃない。
けれど、凛は納得ていないようだ。
彼女はテーブルの下で、僕のシャツの袖を、指が白くなるほど強く握りしめた。
凛の寂しそうな顔が、見ていてとても辛かった。
初めての共同作業、いい雰囲気でしたね。特に包丁を教えるシーンの密着度は、書いているこちらまでドキドキしました。
何かが動き始めそうな予感がしますね!
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