第54話:戸惑いと、安心できる場所。
自分の布団の中にいた凜を見て、固まってしまった朝陽。
でも、その無防備な寝顔を見れば、責める気なんてこれっぽっちも起きませんでした。
朝陽も、相当彼女に毒されているのかもしれません。
嵐の日の、静かで少しだけ熱い午後のひとときをお楽しみください。
「……はぁ」
僕はそっとドアを閉め、脱衣所へ逃げ込んだ。
自分の布団に、女の子が丸まって眠っている。その事実だけで、心臓の鼓動が雨音を追い越すほど速くなる。
濡れた服を脱ぎ捨て、熱いシャワーを頭から被った。
冷え切った肌に熱が戻るにつれ、さっき見た光景が鮮明に蘇ってくる。
僕のパジャマの予備を抱きしめ、僕の布団にくるまっていた凛。
合鍵を渡したときは、まさかこんな風に使われるなんて思ってもみなかった。
不思議と嫌な気はしない。むしろ、自分のテリトリーに彼女の存在が混ざり込んでいくことに、妙な居心地の良さを感じていた。
だが、それと同時に、変わっていく自分に戸惑いを感じていた。
シャワーを終え、リビングで予備のTシャツに着替える。
外では相変わらず、暴力的なまでの雷鳴が轟いていた。
僕はキッチンに立ち、お湯を沸かし始めた。
自分を落ち着かせるため、そして、もうすぐ目を覚ますであろう彼女のために。
「……っ、ふぇ……?」
寝室のドアが、細く開く音がした。
直後、空気を引き裂くような大きな雷鳴。
「あ……さひ、くん……?」
パタパタと心許ない足音がして、リビングの入り口に凛が姿を現した。
寝起きのせいで髪は少し乱れ、その肩には僕の薄手のパーカーが羽織られている。
「起きたか。まだ雷、ひどいな」
「……うん。……ごめん、勝手に入っちゃった。自分の部屋にいたんだけど、音が怖くて、どうしようもなくて……」
凛は気まずそうに視線を泳がせる。
その指先が、無意識にパーカーの袖をぎゅっと握りしめていた。
「……気づいたら、こっちに来てた。朝陽くんの匂いがしたから。……少しだけ、落ち着けるかなって。ごめん、キモいよね」
「……キモくはないだろ。謝らなくていいよ」
僕は沸騰したケトルを火から下ろし、マグカップにティーバッグを沈めた。
「そのために合鍵を渡したんだからな。……一人で怖がってるより、こっちにいた方が僕も安心するし。……ほら、座れ。温かいもん淹れたから」
「……ありがとう」
凛は僕の定位置であるソファーの隅っこに、ちょこんと腰掛けた。
僕の布団で眠っていたせいか、彼女の体からは、僕がいつも使っている柔軟剤と同じ、清潔な石鹸の匂いがふわりと漂ってきた。
僕の部屋の匂いと、彼女自身の甘い匂い。
それが一つになって、リビングの空気をいつもより濃くしている気がした。
僕は、彼女から少しだけ距離を置いてソファーに腰を下ろした。
窓を叩く雨音と、ポットの中で揺れるお茶の音。
静まり返ったリビングで、凛がポツリと口を開いた。
「……私、小さい頃から雷がダメなの。お父さんもお母さんも仕事でいなくて、家で一人で停電になったことがあって」
「そうだったのか。……それは、怖かったな」
「うん。……でも不思議だね。さっき、朝陽くんの布団に入ったら、外であんなに鳴ってるのに、全然怖くなくなったの」
凛がマグカップを両手で包み、ふぅ、と息を吐く。
立ち上る湯気の向こうで、彼女は少しだけ照れくさそうに笑った。
「……一人じゃないって、こんなに違うんだね」
「……まあ、僕もずぶ濡れで帰ってきたとき、自分の部屋に『何か』がいるのは心臓に悪かったけどな」
「あはは、ごめんってば。」
冗談めかして言うと、凛はやっといつもの調子で笑ってくれた。
激しかった雨音が、少しずつ低く、落ち着いたリズムへと変わっていく。
外の世界はまだ嵐の余韻を残しているけれど、このリビングだけは、どこまでも穏やかな時間が流れていた。
自分の家に、自分以外の誰かがいる。
それが「邪魔だ」とも「気まずい」とも思わない。
むしろ、彼女の存在がそこにあることが、僕にとっても救いになっている。
「……あ。雨、ちょっと弱くなってきたかな」
「……ほんとだ。空、少し明るくなってきた」
遠ざかっていく雷鳴を聞きながら、僕たちはしばらくの間、どちらからともなく肩を寄せ合うようにして、雨上がりの空を待っていた。
「……朝陽くん」
「ん?」
「……回鍋肉、まだ残ってる?」
「……ああ。温め直してやるよ」
「わーい!おやつだ!」
「おや…つ?」
日常が、ゆっくりと戻ってくる。
けれど、僕たちが纏っている石鹸の匂いは、まだ一つに溶け合ったままだった。
「合鍵を渡したのは、こういう時のためでもある」という朝陽くんの言葉、不器用ながらに彼の優しさが詰まっていましたね。凛ちゃんにとっても、これ以上ないほど心強い言葉だったはずです。
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