第53話:夕立と、寝てしまった令嬢。
仕事向かう凜を見送り、朝陽は一人、買い出しへと向かいます。
しかし、夏の空は気まぐれ。
激しい雷雨の中、ずぶ濡れで帰宅した朝陽が自分の寝室で目にしたのは、予想だにしない「光景」でした。
キッチンに、ガツンと強い香りが広がった。
豚バラ肉から溶け出した脂に、甜麺醤と豆板醤を合わせる。焦げる味噌の匂いは、それだけで白飯が何杯でもいける確信を持たせてくれる。キャベツはあえて手でちぎり、強火で一気に炒めた。
(……よし、これでいい)
皿に盛っても、僕は彼女を呼ばなかった。
仕事中の凛は、一度波に乗ると周りが見えなくなる。サポーターとしては、彼女の集中力が切れる瞬間を待つのが正解だ。
十分ほどして「お疲れ様ー! ごはん、ごはん!」と、少し浮ついた声が聞こえてきた。
「お疲れ様。冷めないうちに食べよう」
「わぁ、回鍋肉!大好き……!」
(回鍋肉好きなのか…覚えておこう。)
二人でテーブルを囲む。凛が一口、大きく肉とキャベツを頬張った。
「ん〜っ! 味が濃くて、キャベツが甘い……。」
「おかわりあるぞ。」
「いただきます!」
(美味しそうに食べるなぁ…。)
「……午後はどうするんだ?」
「リテイクが入っちゃって。作業量はまだ見えないから、何時に終わるかわからないの」
ホクホクとした満足げな顔で完食すると、彼女は「ごちそうさま!」と、また戦場に戻る戦士のような背中で自分の部屋へ帰っていった。その後ろ姿を見送りながら、僕は一人で食材の買い出しに出ることにした。
マンションの外に出たときは、まだ夏の湿った空気が纏わりついてくる程度の快晴だった。
しかし、スーパーで買い物を終えて自動ドアを抜けた瞬間、僕は思わず足を止めた。
「……まじかよ」
世界が、急速に色を失っている。
さっきまでの青空はどこへ消えたのか、低く垂れ込めた鉛色の雲が、街を押し潰しそうなほどに迫っていた。ピカッと視界が白く光り、一拍おいて「ドォォォォォン!」と腹に響く雷鳴が空気を震わせる。
次の瞬間、バケツをひっくり返したような豪雨が降り始めた。
壊れた折りたたみ傘を捨てたばかりだった自分の運のなさを呪いながら、僕は意を決して雨の中へ飛び出した。
買い出し袋を庇いながら走るけれど、数秒で靴の中までじっとりと重くなる。
激しさを増す雷の音に、街全体が怯えているような、そんな不気味な午後だった。
「……くそ、びしょ濡れだ」
ようやくマンションの自室に辿り着いたとき、僕は文字通りの濡れ鼠だった。
息を切らしながら、ポケットから鍵を取り出し鍵穴に差し込むと、僕は違和感に気づく。
(……あれ。鍵、開いてる?)
確かに閉めて出たはずだ。
凛は隣の部屋にいるはずだが、仕事が終わって僕の家に……?
僕は買い物袋をそっと廊下に置き、水滴を滴らせたままリビングへと足を踏み入れた。
「……凛? いるのか?」
呼びかけても、返事はない。
テレビもついていないし、キッチンにも人の気配はない。
ただ、外の雷鳴が壁を震わせる音だけが、やけに大きく聞こえる。
僕は一番奥の場所――自分の寝室のドアの前に立った。
心臓の鼓動がうるさくて、雨の音が遠くなる。
僕は意を決して、一気にドアを開けた。
「……え?」
そこにいたのは、侵入者ではなかった。
僕のベッドの上。掛け布団が不自然に、こんもりと大きく膨らんでいる。
けれど、外でどんなに激しい雷が鳴っても、その「塊」はピクリとも動かない。
僕は恐る恐る近づき、布団の端に手をかけた。
ゆっくりとめくってみると、そこには――。
「……凛?」
僕のパジャマの予備を大事そうに抱きしめ、丸くなって眠る凛の姿があった。
まつ毛には微かに涙の跡が残っている。
雷が怖くて、僕の部屋に逃げ込んできたんだろう。
そのまま眠ってしまったのだ。
(……あんなに大きな音がしてるのに、よく眠れるな)
無防備すぎる彼女の寝顔を見つめながら、僕は小さく溜息をついた。
泥棒じゃなくて良かったという安堵と、自分に向けられた無自覚な信頼の重さに、胸の奥が少しだけ熱くなる。
ずぶ濡れの僕と、僕の布団で安らかに眠る彼女。
窓の外の嵐は、まだ止む気配を見せていなかった。
回鍋肉を食べて幸せそうだったお昼から一転、不気味な雷雨。
ずぶ濡れで帰ってきた朝陽を待っていたのは、自分の布団の中で眠っている凛ちゃんでした。
「怖くて避難してきたのに、安心しちゃって眠っちゃう」という展開、凛ちゃんの朝陽くんへの信頼がどれほど深いかが伝わってきて、とても尊いですね。
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