第52話:気遣いと、これからのこと
嵐のようなご両親の訪問が終わり、ようやく静かになったマンションの廊下。
でも、朝陽の頭の中は、別れ際に見た「真っ赤な顔の凛」のことでいっぱいでした。
「もしかして、疲れが出たのか? 知恵熱か?」
タクシーが角を曲がり、見えなくなるまで手を振った。
「……行っちゃったね」
隣でぽつりと呟いた凛の顔は、朝の陽射しのせいか、それとも感情の昂りのせいか、耳の付け根まで真っ赤に染まったままだ。
「ああ。……帰ろうか」
マンションの廊下を歩く僕たちの足音が、いつもより響いて聞こえる。
部屋に戻り、窓を開けて空気を入れ替える。
入り込んできたのは、いつものねっとりとした夏の熱気と、どこか遠くで鳴り始めた蝉の声。
「……凛、大丈夫か?」
「えっ? なにが?」
「いや、なんか顔がずっと赤いから。……一回自分の部屋で休んでな。朝飯できたら呼ぶから」
「……うん。わかった」
(昨日から片付けやら何やらで、相当無理をさせたからな……。知恵熱でも出たのかな?)
自分の部屋に戻り、換気のために窓を開ける。
熱気に混じって、どこからか蝉の声が聞こえてきた。
僕はとりあえず台所に立ち、胃に優しい朝食の準備を始めた。
土鍋に薄めの出汁を張り、沸騰したところに冷や飯を投入する。
木べらで優しくほぐしながら、弱火でじっくりと煮立たせる。米の芯が取れて、出汁をたっぷり吸ってふっくらしたところで、溶き卵を回し入れた。
仕上げに、刻んだ三つ葉を散らす。
作りながらも、さっきの彼女の様子が頭から離れない。
「よし、これでいいか」
準備を整え、僕は隣へメッセージを送った。
『朝ごはんできたぞ。食べられるか?』
一分もしないうちに、凛がやってきた。
「凜……ちょっといいか?」
玄関を入ってきた凛を、僕は通路で呼び止めた。
「えっ、あ、うん。なに……?」
キョトンとしている彼女の前に立ち、僕は迷わず右手を伸ばした。
少し長めの前髪をそっとかき上げ、その広いおでこに、僕の手のひらをピタリと当てる。
「あ……ひゃ、朝陽くん!?」
凛が弾かれたように肩を震わせる。至近距離で見つめると、彼女の瞳が激しく揺れているのがわかった。
「……ん。熱はなさそうだな。良かった」
ひんやりとした肌の感触を確認して、僕は手を離した。
「ごめん。さっきタクシーを見送る時、顔が真っ赤だったから気になって。最近忙しかったし、ご両親が来て緊張の糸が切れたのかと思ったんだ」
僕が理由を説明すると、凛の顔は「真っ赤」を通り越して、今にも沸騰しそうなほど赤くなった。
「……あ、あ、熱じゃないよぉ! もう……バカ……」
プイッと顔を背けて席に着く彼女を見て、僕はようやく自分のデリカシーのなさに気づいた。
「……悪かったよ。次からは普通に体温計渡すね。……ごめん」
「………………別に、いいけど。……ちょっとびっくりしただけだから」
小さく呟いた彼女は、雑炊を一口食べると、それ以上は何も言わなかった。
美味しそうに食べているのを見て、僕はひとまず胸を撫で下ろした。
朝食を終え、凛は「締め切りが近いから」と、自分の部屋に籠もって仕事に戻った。
一人になったダイニングで、僕はカレンダーを広げる。
ご両親から「娘を頼む」と言われた以上、ただ僕が尽くすだけでは意味がない。
(夏休みが終わる頃には、凜が一人でも最低限の生活を回せるようにしないとな)
彼女は不器用だ。放っておくとすぐにコンビニ弁当やカップ麺で済ませようとする。
僕はペンを手に取り、これからのスケジュールを書き込んでいった。
昼食: 仕事に集中させるため、引き続き僕が作る。
夕食:一日おきに特訓日にすればいいか。僕が教えながら、凛にメインの包丁を握らせる。
掃除・洗濯: 週末にまとめてルーティン化させる。
「まずは……料理だな」
簡単なものから段階を踏んで教えていこう。
不器用なあの子が、自分の指を切ったり火傷したりしないように、マンツーマンで見張っておく必要がある。
僕は本棚から一冊の料理本を取り出した。
初心者向けの、基礎中の基礎が書かれた本だ。
凜の細い指先を思い出す。
いつか彼女がこの場所から羽ばたくとき、あるいは僕がいなくなったとき、自分の手で自分を養える力を持っていてほしい。
それが、僕なりの「支える」ということの答えのような気がした。
第52話、ありがとうございました。
朝陽くん、天然のタラシぶりでしたね。
でも、彼の根底にあるのはどこまでも真摯な「健康管理」。この温度差が二人の面白いところです。
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