第50話:賑やかな訪問者と、静かすぎる夕食。
これまで「サポーター」として凛を支えてきた朝陽の前に、本物の「保護者」が登場します。
夫婦らしい落ち着きと、隠しきれない親バカ。
そして、彼らが去った後に残る、数日ぶりの「一人きりの時間」。
その日の朝は、落ち着かない手持ち無沙汰感から始まった。
昼前には自分と凛の部屋の最終チェックを終え、昼飯は何を食べたかも覚えていない。
決戦は、夕方からだ。
昨日までは何ともなかったのに、今日の朝から自分が自分でない感覚に襲われている。
鏡の前で、僕は三度目となるシャツの着替えを終える。アイロンのきいた白シャツは固すぎる気がして、結局、少し上質なネイビーのポロシャツに落ち着いた。
「……よし」
気合を入れ直したその時、隣の部屋からインターホンの音が聞こえてきた。
続いて、聞き慣れない大人たちの声。
いよいよだ。僕は深く息を吐き、隣の部屋のドアを叩いた。
「あ、朝陽くん……」
出迎えてくれた凛は、いつもより背筋を伸ばしていた。その後ろから、洗練された空気を纏った男女がこちらを振り返る。
「初めまして。お隣に住んでいます、瀬戸朝陽と申します。いつも凛さんにはお世話になっております」
人生で一番深いお辞儀をした僕に、凛の父親が穏やかな笑みを浮かべて歩み寄ってきた。
「君が、朝陽くんだね。凛から話は聞いているよ」
父親は、海外のビジネスマンらしい隙のない身のこなしだったが、その瞳は驚くほど優しかった。僕の手を両手で包み込むように握り、深く頷く。
「娘が一人暮らしを始めると言い出した時は、正直心配で夜も眠れなかったんだ。君のような誠実そうな若者が隣にいてくれて、本当に安心したよ。ありがとう」
「いえ、そんな……。僕の方こそ、彼女には助けられています」
「そうか。……凛、顔色が良くなったな。ちゃんと食べているようだ」
そう言って娘の頭を撫でる父親の顔は、エリートのそれではなく、ただの「娘に甘い父親」の顔だった。
けれど、ふとした瞬間に、彼は僕の目を真っ直ぐに見つめてきた。
「……ところで、朝陽くん。一つ聞いてもいいかな。君はなぜ、損得抜きでここまで娘を助けてくれるんだい? 凛は可愛いが、性格には少々難があるだろう?」
「お父さん、それひどい……!」
凛の抗議を余所に、僕は一瞬言葉に詰まった。なぜだろう。料理を作るのが好きだからか。それとも……。
「……彼女が、頑張っているからです。それを見ていると、自然と力になりたいと思うんです」
僕の答えに、父親は少しだけ意外そうな顔をした後、「……なるほどな」と満足げに目を細めた。
「凛、あなた……随分と生活が丁寧になったわね」
キッチンや棚を眺めていた母親が、感心したように声を上げた。
昨日、僕と一緒に100円ショップで買ったボックスが、資料を綺麗に仕分け、シンク周りも磨き上げられている。
「朝陽くんに教えてもらったの。私一人じゃ、きっと今頃ゴミ屋敷だったよ」
凛が照れくさそうに笑う。母親はその様子を、すべてを見透かすような知的な瞳で見守っていた。
「自分の生活を整えるのは、自分を大切にするってことよ。……素敵な隣人さんに出会えて良かったわね、凛」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなった。僕たちが重ねてきた時間は、間違いなく彼女の血肉になっているのだと、確信できた気がした。
「さて! 一泊しかできないんだ、今夜は美味しいものでも食べに行こう。朝陽くんもどうだい?」
父親の誘いに、僕は丁寧に首を振った。
「いえ、せっかくのご家族の時間ですから。僕は自分の部屋でやる事があるので…。」
「そうか、残念だ。……凛、行くぞ。予約の時間に遅れる」
「……ごめんね、朝陽くん。また明日、ね?」
玄関先で、凛が申し訳なさそうに、けれどどこか名残惜しそうに僕を振り返る。
やがて、賑やかな話し声はエレベーターの中に消え、廊下には海外の柔軟剤のような香りが微かに残るだけになった。
自分の部屋に戻ると、静寂が待っていた。
エアコンの稼働音だけが虚しく響く。
「……さて、何食べるかな」
凛がいれば、栄養バランスや彼女の好みを考えて台所に立つ。けれど、自分一人のためとなると、驚くほど情熱が湧かなかった。
結局、昼間の残りのご飯で適当なチャーハンを作り、フライパンのままテーブルに運ぶ。
テレビをつけても、スマホを眺めても、なんだか手持ち無沙汰だ。
一口食べたチャーハンは、いつもと同じ味のはずなのに、妙に味が薄い気がした。
「……静かすぎるな」
何日か前までは、これが当たり前だったはずなのに。
食後、いつものストレッチとマッサージの時間がやってくる。
けれど、僕の目の前には誰もいない。
彼女が座っていたソファーの隅っこが、やけに広く感じる。
「今日は、なしか」
体をほぐす習慣がないわけではない。でも、彼女の足の感触や、「痛い痛い!」と騒ぐ声、終わった後の少しとろけたような笑顔がない夜は、驚くほど長く、退屈だった。
窓の外を見上げると、夜の街が昨日までと同じように輝いている。
今頃、あいつは家族に囲まれて、美味しいものを食べているだろうか。
親バカな父親に、あれこれと質問攻めに合っているかもしれない。
「……早く明日にならないかな」
自分でも驚くほど素直な独り言が、空っぽの部屋に溶けていった。
一人でいることの気楽さよりも、一人でいることの「物足りなさ」が勝ってしまった夜。
僕は早々に電気を消して、まだ見ぬ明日の朝を待つことにした。
一人の時間を愛していたはずの朝陽くんが、たった一晩で「凛ちゃんのいない空間」に寂しさを感じてしまう。もう、彼の日常は凛ちゃんなしでは成立しなくなっているようです。
次回は、凜視点で始まります。
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