第294話:彼氏の答えと、未来への指切り
「私たち……もう、正式に一緒に住んじゃわない?」
大好きな彼女の口から飛び出した、あまりにも不意打ちすぎる提案。
俺の頭の中は一瞬にして真っ白になり、手に持っていたチョコレートを危うくラグマットの上に落としそうになった。
「一緒に、住むって……」
「 だってさ、よく考えたら、ご飯を食べるのもお風呂に入るのも、いつも朝陽くんのお部屋で一緒でしょ? お休みの日だって、こうしてずっと一緒にいるし。別々なのは、本当に夜寝る時だけなんだよ」
少しだけ早口に、言い訳のようにそう捲し立てる凛。
パジャマの袖口をぎゅっと握りしめるその手からは、ただ単にわがままを言っているわけではなく、純粋に「明日から離れたくない」という、切実な本音が痛いほど伝わってきた。
大好きな相手から、そんな風に求められて。
男として、いや、一人の人間として、嬉しくないわけがない。
正直なところ、俺の内心は大きく揺らいでいた。
今すぐ「そうだな、一緒に住むか」と頷いて、彼女を抱きしめてしまいたい衝動に駆られていた。
けれど。
ここで流されて頷いてしまうのは、彼女の彼氏として、絶対にやってはいけないことだ。
「……凛。お前のその気持ちは、すげえ嬉しいよ。俺だって、ずっと一緒にいたいって思ってる」
俺は一度大きく深呼吸をして、自分の中の理性を総動員してから、真っ直ぐに彼女の目を見た。
「でも、いくら隣同士の部屋とはいえ、高校生のうちから本格的な同棲をするのは……さすがに、まだ早いと思うんだ」
「……っ」
「俺たちはまだ学生だ。親御さんだって、いくら仲がいいとはいえ、未成年の男女が完全に一緒に暮らしてるって知ったら、絶対に心配するだろ?」
俺が静かに諭すように言うと、凛は少しだけバツが悪そうに視線を落とした。
「それにさ」
「それに……?」
「今はこうして、壁一枚隔てたこの距離感があるからこそ、ちゃんとお互いのパーソナルスペースや生活リズムを守れてる部分もあると思うんだよ。凛にはイラストの仕事に集中しなきゃいけない時間があるし、俺にだって一人の時間が必要な時があるかもしれない」
もし完全に同じ部屋で暮らしてしまえば、お互いの逃げ場がなくなってしまう。
大好きな相手だからこそ、なあなあになって関係を壊してしまうようなことは、絶対に避けたかった。
何より、プロのイラストレーターとして命を削るように作品と向き合っている彼女の聖域を、俺のエゴで邪魔したくなかったのだ。
「……朝陽くんの言うこと、正論すぎて何も言い返せない」
凛はそう言って、少しだけむくれたように唇を尖らせた。
頭では俺の言うことが正しいとわかっていても、感情の部分でまだ納得しきれていない反応だ。
そんな彼女がいじらしくて、たまらなく愛おしくて。
俺は彼女のサラサラとした髪に手を伸ばし、優しく撫でた。
「……高校を卒業して、お互いにちゃんと自立した大人になったらさ」
「……うん」
「その時は、俺からちゃんと……『一緒に暮らそう』ってお願いするから。それまで、待っててくれないか」
俺の言葉を聞いた瞬間。
凛の瞳が大きく見開かれ、尖っていた唇がゆっくりと緩んでいくのがわかった。
少しだけ赤くなった頬に、嬉しさと安心感がじわっと広がっていく。
「……ほんと?」
「ああ。約束する」
俺が頷くと、凛は俺の胸の前に自分の右手を差し出し、きゅっと小指を立てた。
「……絶対だからね。私、ずっと覚えてるから」
「わかってるよ」
俺も自分の小指を出し、彼女の細い指に絡ませる。
『ゆびきりげんまん』なんて、子供の頃以来だ。
けれど、交わした指先から伝わってくる彼女の体温は、どんな誓いの言葉よりも確かに、二人の未来を繋いでいるような気がした。
「さて、いい時間だし、そろそろ寝る準備しろ。明日は学校だぞ」
未来への約束を交わし、心が落ち着いたところで、俺は立ち上がって凛に声をかけた。
「はーい」と素直に返事をした凛は、歯磨きを済ませて自分のベッドへと潜り込む。
今日は、同じベッドには入らない。
その代わり、俺はベッドの縁に腰を下ろし、布団から出ている凛の小さな手をそっと手で包み込んだ。
「……朝陽くん?」
「ん。眠るまで、こうしてるから」
俺がそう言うと、凛は嬉しそうに「えへへ」と笑って目を閉じた。
俺は繋いだ手とは反対の手で、布団の上からポン、ポンと一定のリズムで彼女の体を優しく叩く。
静かな部屋の中に、時計の秒針の音と、俺が布団を叩く小さな音だけが響く。
やがて、凛の呼吸が深くなり、スースーという穏やかな寝息へと変わっていった。
完全に夢の中へと落ちたのを確認し、俺は握っていた手をそっと布団の中にしまう。
「……おやすみ、凛」
誰にも聞こえない声で小さく呟き、ベッドサイドの小さなランプだけを残して部屋の明かりを消す。
そして、静かにドアを閉めて、彼女の部屋を後にした。
ガチャリ、と自室のドアを開ける。
ほんの二日前まで当たり前だった一人きりの部屋の空気が、今は妙に冷たく感じられた。
パジャマ姿のまま、自分のベッドに寝転がる。
セミダブルのベッドは、一人で寝るには予想以上に広く、そして静かだった。
昨日と一昨日の夜、すぐ隣にあった温もりと、ほんのりと香るカモミールの匂いがないだけで、こんなにも落ち着かないなんて。
「……俺の方も、相当寂しいじゃねえか」
暗闇の中で一人、俺は自嘲気味に苦笑いをしてしまった。
彼女に「まだ早い」なんて偉そうに説教をしておきながら、俺自身が彼女の存在にどれだけ依存しているかを、この静けさが容赦なく突きつけてくる。
(……早く、大人になりたいな)
先ほど彼女と交わした、『一緒に暮らす』という未来の指切り。
その光景を頭の片隅に思い描きながら。俺は少しだけ冷たい布団を引き寄せ、静かに目を閉じた。
こうして、甘くて、楽しくて、少しだけ心臓に悪かった二泊三日のお泊まり会は、穏やかな静寂と共に幕を下ろしたのだった。
第294話、ありがとうございました!




