第293話:日曜の夜の寂しさと、彼女からの提案
「ごちそうさまでした! はー、お腹いっぱい……幸せ……」
しゃぶしゃぶの土鍋がすっかり空になり、お肉も野菜も綺麗に平らげた凛が、ぽんぽんと自分のお腹を撫でながら満足そうに息をついた。
普段は隙のない『氷の令嬢』が、美味しいご飯を食べて完全に警戒心を解いているこのだらしない姿。 オカンとしては、これ以上ないほど作り甲斐(今日は準備しただけだが)があるというものだ。
「よく食ったな。野菜もたっぷりだったし、バランスはばっちりだ」
「うんっ。朝陽くんと食べるお鍋、ほんとに美味しかった!」
えへへ、と笑う彼女に「お粗末さま」と返し、俺はテーブルの上の空になった肉のトレーや小鉢を重ねて立ち上がった。
「あ、私もお片付け手伝う!」
「いいよ、座ってろ。お腹いっぱいで動きたくないだろ?」
「ううん。美味しいもの食べさせてもらったんだから、お片付けは一緒にやるの」
そう言って、小走りについてくる凛。
結局、二人で並んで狭いキッチンに立つことになった。
俺がスポンジで洗ってすすいだ土鍋や小鉢を、隣に立つ凛が清潔な布巾で丁寧に拭いていく。
肩と肩が触れ合う距離。
スポンジの泡の音と、食器が重なるカチャカチャという音だけが、平和なキッチンに響いている。
「……ねえ、朝陽くん」
「ん? なんだ?」
「こういうの、なんかいいよね」
「こういうの?」
「二人で一緒にご飯を食べて、こうして一緒にお片付けして……なんだか、本当の家族みたい」
拭き終わったお皿を食器棚にしまいながら、凛が少しだけ照れくさそうにはにかんだ。
その笑顔と「家族みたい」という言葉に、俺の胸の奥がきゅうっと締め付けられる。
「っ……ほら、よそ見してると皿落とすぞ」
「大丈夫だよー」
動揺を隠すようにわざとぶっきらぼうに返すと、凛は楽しそうに笑って最後のお皿を拭き終えた。
「よし、片付け完了。……凛、お腹いっぱいでソファで寝落ちする前に、お風呂入ってこいよ。お湯張ってあるから」
「はーい! じゃあ、お先にもらいます!」
エプロンを外した凛は、バッグからパジャマのセットを取り出すと、ウキウキとした足取りで脱衣所へと消えていった。
俺は一人残されたリビングで温かいお茶を飲みながら、彼女がお風呂から上がるのを待つ。
壁一枚を隔てた向こう側から、かすかにシャワーの音が聞こえてくるだけで、俺の部屋がいつもより何倍も温かい空間に感じられた。
やがて、十分ほどして脱衣所のドアがガチャリと開き――。
「ふぅー、さっぱりしたー!」
もこもこのパジャマに着替えた凛が、タオルで頭をわしゃわしゃと乱暴に拭きながら出てきた。
毛先からはまだポタポタと水滴が落ちている。
「お前なぁ……ちゃんと拭かないと風邪引くぞ」
「だって、髪長いから拭くの面倒くさくて。あとで適当に乾かすよ」
タオル越しに自分の頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でる姿を見て、俺の中のオカンとしての本能が黙っていられなくなった。
洗面台からドライヤーを取ってきて、コンセントにプラグを挿す。
「ほら、こっち来い。座って」
「えっ? 朝陽くん、乾かしてくれるの?」
「適当に乾かして半乾きのまま寝られたら、せっかくの髪が痛むだろ」
俺がラグマットの上をポンポンと叩くと、凛は嬉しそうに「わぁい」と小走りで近づいてきた。
そして、俺がソファを背にしてラグの上に座ると、昨日と同じように、俺の開いた足の間にちょこんと背中を向けて座ったのだ。
「……なんか、この定位置、すっかりお気に入りだな」
「うんっ。ここ、朝陽くんに包まれてるみたいですっごく安心する」
俺の胸に背中を預けてくる凛の頭に、まずは乾いたタオルを被せて、ポンポンと優しく叩くようにして根元の水分を取っていく。
それからドライヤーのスイッチを入れた。
『ブォォォォ……』
温かい風が、彼女の濡れた髪を揺らす。
手櫛でゆっくりと髪を梳きながら、内側からしっかりと風を当てていく。
シャンプーの甘い香りが、温風に乗ってふわりと俺の鼻腔をくすぐった。
「んん〜……温かい」
凛は目を細め、猫のように気持ちよさそうに首を傾げて俺の手に身を委ねている。
指先に触れるサラサラとした髪の感触と、俺に伝わる彼女の体温に、俺は一人で密かに温かい多幸感に浸っていた。
「よし、乾いたぞ。……ついでだ、そのまま肩も揉んでやるよ」
「えっ、いいの?」
「お風呂上がりで血行が良くなってる時の方が、マッサージも効くからな」
ドライヤーを横に置き、俺はそのままの体勢で彼女の華奢な肩に手を乗せた。
親指で肩甲骨の周りをゆっくりと押し込むように指圧していく。
「あぁ……そこ、すっごく効く……」
お風呂でしっかりと温まった体は、いつもよりずっと柔らかく、俺の手の動きに合わせて簡単にほぐれていった。
凛は完全に脱力し、「はぁ〜、極楽……」と呟きながら、俺の胸にさらに深く体重を預けてくる。
何気ないスキンシップの時間。
ただこうして触れ合っているだけで、言葉なんてなくても、お互いの愛情がじんわりと伝わってくるような気がした。
「さて、お風呂入ってくる。出たら買ってきたお菓子でも開けるか」
「食べるー!」
マッサージと風呂を終え、二人でローテーブルに向かい合って座る。
テレビをつけ、適当なバラエティ番組を流しながら、スーパーで買ってきたお菓子をつまむことにした。
「 私、コンソメ味のポテチがいい!」
「俺はこっちのチョコレートだな。……うん、甘っ」
「ポテチのしょっぱさとチョコの甘さで、無限ループできるね」
画面の中では芸人たちが大げさに笑い転げ、俺たちもそれを見ながら他愛のない会話を交わす。
バリッ、サクッ、というお菓子をかじる音が、平和なリビングに響いていた。
けれど。
ふと壁の時計を見上げると、針は夜の十時を回ろうとしていた。
(……そろそろ、寝る準備をする時間だな)
明日は月曜日。学校がある平日だ。
つまり、金曜日の夜から始まった『お泊まり』という甘く特別な非日常が終わりを告げ、またそれぞれが自分の部屋のベッドで眠るという『日常』に戻る時間が、すぐそこまで迫ってきている。
「…………」
先ほどまでテレビを見て笑っていた凛が、ぽつんと無言になった。
手元のポテトチップスを見つめたまま、食べる手が止まっている。
「どうした? お腹いっぱいになったか?」
「ううん。……そうじゃないけど」
凛は小さく首を振って、テレビから視線を外した。
「……今日からまた、寝る時は、一人なんだよねって思って」
ぽつりとこぼれ落ちたその声には、隠しきれない寂しさが滲んでいた。
俺も同じ気持ちだった。
「……まあ、な。でもお前、壁一枚隔てた隣の部屋だろ。明日の朝も一緒にご飯食べるし……」
俺がなるべく明るい声で慰めようとした、その時だった。
凛がくるりとこちらに向き直り、テレビの音を遮るように、少しだけ真剣な、真っ直ぐな瞳で俺を見た。
「ねえ、朝陽くん」
「……ん?」
「私たち……もう、正式に一緒に住んじゃわない?」
「――――え?」
唐突に飛び出したその言葉に、俺は手に持っていたチョコレートを落としそうになった。
「だってさ、よく考えたら、ご飯を食べるのもお風呂に入るのも、いつも朝陽くんのお部屋で一緒でしょ? お休みの日だって、こうしてずっと一緒にいるし。別々なのは、本当に夜寝る時だけなんだよ」
「ま、まあ……確かに、生活の半分以上は共有してるようなもんだけど……」
「だったら、最初から同じ部屋で同棲した方が、自然じゃないかな……って」
少しだけ早口に、言い訳のようにそう捲し立てる凛。
パジャマの袖口をぎゅっと握りしめるその手からは、ただ単にわがままを言っているわけではなく、純粋に「明日から離れたくない」という、切実な本音が痛いほど伝わってきた。
高校生同士の、同棲。
大好きな彼女からの、あまりにも不意打ちすぎる提案。
俺の頭の中は真っ白になり、言葉を返すことができず、ただただ彼女の潤んだ瞳を見つめ返すことしかできなかった。
第293話、ありがとうございました!
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