第272話:ソースの香りと、そして寝る場所問題』
豚バラ肉から滲み出た脂が、フライパンの上でパチパチと心地よい音を立てている。
ざく切りにしたキャベツを加え、強火でサッと炒め合わせると、食欲をそそる香りがキッチンに広がった。
ちょうどお昼時。
俺は二人分の昼食を作るため、コンロの前に立っていた。
そこに、隣の部屋でイラストの作業をしているはずの凛が、パタパタとスリッパの音を立ててやってきた。
「凛、お疲れ様! もうすぐご飯できるぞ」
フライパンを煽りながら振り返らずに声をかける。
しかし、返事はなかった。
代わりに――背中に、ふわりと温かくて柔らかい重みがのしかかってきた。
「……凛?」
「…………」
細い腕が俺の腰に巻き付き、背中にコツンと額を押し付けるような感触。
背中越しでも、彼女の体温と、鼓動が少し早くなっているのが伝わってくる。
「ど、どうした? 疲れたか?」
動揺してフライパンを持つ手が止まりそうになる俺に対し、凛は背中に顔を埋めたまま、くぐもった声で呟いた。
「……部屋に戻ったら、急に……自分が言ったことの、破壊力に気づいて……」
「あー……」
「顔が熱くて、まともに朝陽くんの顔見れなくなっちゃった……。でも、こうして背中にくっついてると、すごく安心するから……ちょっとだけ、このままでいさせて……」
(――っ、なんだその甘え方は!)
照れすぎて限界を迎えた結果、「顔を見ずに抱きつく」という手段に出たらしい。
背中にピタッと張り付く彼女のぬくもりに、俺の心臓のほうまで早鐘を打ち始めてしまう。
とはいえ、火を使っている最中だ。
俺はなんとか理性を総動員して、フライパンに意識を戻した。
「……わかった。火元だけは気をつけてな」
「うん……朝陽くんの背中、広くて、あったかい……」
背中に特大の爆弾を抱えたまま、俺はなんとか昼食を完成させた。
「お待たせ。ソース焼きそばだ」
テーブルに並べたのは、屋台の匂いを完全再現した焼きそば。
豚バラの旨みを吸ったシャキシャキのキャベツ。
最大のポイントは、麺を先にフライパンで焦げ目がつくまでしっかり焼いてから、ソースを絡めることだ。
こうすることで香ばしさが段違いになる。
スパイシーで甘辛いソースが少し焦げた匂いが部屋中に充満し、上にはたっぷりの青のりと紅生姜。
そして、とろとろの半熟目玉焼きをドーンと乗せている。
「うわぁ……っ! すっごくいい匂い!」
さっきまで背中で恥ずかしそうに縮こまっていた凛だが、テーブルの上の焼きそばを見た瞬間、パニックをすっかり忘れたように目を輝かせた。
「いただきます!」
割り箸を割り、まずは目玉焼きの黄身をぷつんと崩す。
とろりと溢れ出した濃厚な黄身を、ソースがしっかり絡んだ麺にたっぷりと絡ませて、凛は大きな一口を頬張った。
「んん〜〜っ……!」
もきゅもきゅと咀嚼したあと、彼女の顔がいつものように「ふにゃっ」と幸せそうに崩れる。
「美味しいっ! 麺がところどころカリッとしてて、ソースの味も濃くて最高……!」
「よかった。黄身を絡めるとまろやかになるだろ」
あっという間にいつもの平和な空気に戻り、美味しそうに焼きそばを頬張る彼女の姿を見て、俺もホッと息をついた。
(……さて。ご飯の途中で言うのもアレだけど、一番大事なことを決めておかないとな)
イラストの進捗を聞くと焦らせてしまうかもしれない。
だから俺は、あえて別の話題――来週の「お泊まり」における、最大の問題点に切り込むことにした。
「そういえばさ、凛。来週の寝る場所のことなんだけど」
「っ、ずずっ……!?」
お茶を飲もうとしていた凛が、ビクッと肩を揺らして少しむせた。
「だ、大丈夫か?」
「う、うん。寝る場所、だよね」
「ああ。金曜日までに、俺の予備の布団をしっかり干して叩いとくからさ。俺は床に布団敷いて寝るよ。凛はベッドを使ってくれ」
俺が提案をすると、凛の動きがピタリと止まった。
そして、割り箸をそっと箸置きに置き、少しむくれたような顔で俺をじっと見つめてきた。
「……やだ」
「えっ? いや、さすがに女の子を床で寝かせるわけには――」
「そうじゃなくて。私、朝陽くんのベッドで寝たい」
「だから、ベッドを使っていいって言ってるだろ?」
俺が不思議に思って首を傾げると、凛は顔をみるみるうちに真っ赤に染め上げた。
そして、ギュッと自分の膝の上で両手を握りしめ、潤んだ瞳で俺を上目遣いに見つめてくる。
「……ちがうの。私……朝陽くんと、一緒に、ベッドで寝たいの……っ」
「――っ!?」
俺は危うく、手に持っていた箸を取り落としそうになった。
一緒に、ベッドで。
その言葉の意味を脳が理解した瞬間、全身の血が一気に沸騰する。
「い、いやいやいや! いくらなんでもそれは無理だろ!?」
「無理じゃないもん。……だって、今回のイラストの報酬でしょ? 私のお願い聞いてくれるって言ったよね」
凛は顔を真っ赤にしながらも、絶対に譲らないという強い意志を持った瞳で俺を追い詰めてきた。
「絶対に逃がさないからね」
「逃がすとかそういう問題じゃなくて! あのな、俺だって健全な男子高校生なんだぞ!? 理性がもたないっていうか……」
俺が必死に抗弁すると、凛は少しだけ首を傾げた。
「でも、どうせ寝るだけだよ?」
「寝るだけって……寝相の問題もあるだろ! 俺、一人で寝てるから自分の寝相がどうなってるかわからないし。もし寝ぼけて、凛の変なところとか触っちゃったら嫌だろ!」
必死に思いついた言い訳を並べ立てる俺。
すると凛は、少しだけ目を伏せて、ぽつりと呟いた。
「別に……いいよ」
「え?」
「朝陽くんなら、いつも頭とか撫でてくれてるし、さっきみたいにハグだってしてるし……」
「起きてる時のハグと、寝ぼけて無意識に触るのとは全然別だろ!?」
「……だから」
凛は再び顔を上げ、恥ずかしさで泣きそうなくらい顔を赤くしながらも、真っ直ぐに俺の目を見た。
「……別に、私……朝陽くんになら、どこ触られても、いいけど……っ」
「っ〜〜〜〜!!」
(――ダメだ、こいつ無自覚なのか天然なのか、殺傷能力が高すぎる!!)
俺の理性が、音を立てて崩れ落ちそうになる。
頭の中の警報がけたたましく鳴り響いている。
ここで頷いたら、俺は来週末、間違いなく一睡もできなくなる。
「ば、バカ! そういうこと簡単に言うな! だ、だめだ。親公認とはいえ、俺たちには節度ってものがあるだろ! お互いのためにも、寝る場所は分けるべきだ!」
真っ赤な顔で必死に説教モードに入る俺を見て、凛はふふっ、と小さく笑い声を漏らした。
俺がこれだけ焦ってうろたえているのを見て、余裕を取り戻したらしい。
「朝陽くん、顔真っ赤。……じゃあ、寝る直前までは一緒にベッドにいてくれる?」
「……そ、それくらいなら」
「寝相が悪くて、朝陽くんが私の布団に入ってきちゃっても、怒らない?」
「だから、俺は床に寝るってば……!」
「ふふっ。金曜日、楽しみだね」
凛は悪戯っぽく微笑むと、再び焼きそばを食べ始めた。
結局、明確な約束は有耶無耶にされてしまったが、彼女のあの様子を見る限り、俺が床で寝ることを素直に許してくれそうにない。
(……最悪寝ないで起きてるか……)
特製ソース焼きそばの味もわからなくなるくらい心臓をバクバクさせながら、俺は来たる金曜日に向けて、己の精神力を鍛え直さなければと強く誓うのだった。
第272話、ありがとうございました!




