第256話:お泊まりセットと、正面からの充電
「ただいまー……っと」
「はぁ〜、お疲れ様ぁ……」
すっかり外が暗くなった頃。
両手いっぱいの荷物を抱えて俺の部屋に帰宅すると、凛は靴を脱ぐなりリビングへ直行し、そのままソファにドスッと倒れ込んだ。
「今日はいっぱい歩いたからな。疲れただろ」
「うん……。でも、すっごく楽しかった」
クッションを抱きしめながら、ふにゃりとした笑顔を向けてくる凛。
外で見せていた隙のない姿や、先輩クリエイターの前で少し背伸びをしていた彼女とは違う、完全に気の抜けたこのだらしない姿。
(これを見られるのは、世界中で俺だけだな)
「……あ、そうだ。朝陽くん」
「ん?」
「私、こっちの部屋に私の部屋着とか、メイク落としとか……『お泊まりセット』みたいなの、ちょっとだけ置かせてもらってもいい?」
ソファから顔だけをひょっこり上げて、凛が上目遣いで聞いてくる。
「今日みたいに疲れて帰ってきた時、わざわざ自分の部屋に戻って着替えたりするのが、すっごく面倒くさくなっちゃって……」
「ああ、なるほど。確かに疲れてる時はしんどいもんな。いいぞ、クローゼットの端っこの方、適当に使ってくれ」
「ほんと!? やったー!」
俺が快諾すると、凛は嬉しそうにパッと立ち上がり、「ちょっと取ってくるね!」と自分の部屋へと駆けていった。
そして数分後。
「持ってきたよー!」とご機嫌な声と共に戻ってきた凛の姿を見て、俺は思わずポカンとしてしまった。
「……なぁ、凛」
「うん? どうしたの?」
両手にフワフワの部屋着と、メイク落としの入ったポーチを抱えている凛。
しかし彼女自身は、先ほど出かけた時の秋服のままだ。
「……いや、向こうの部屋でそれに着替えてからこっちに来ればよかったじゃん。なんでわざわざ服のまま持ってきてるんだ?」
「あっ」
俺の正論すぎるツッコミに、凛はピタッと動きを止め、みるみるうちに顔を赤く染めていく。
「そ、そうじゃん……っ。」
「ははっ、疲れて頭回ってないな」
「も、もうっ! 笑わないでよー! ……じゃあ、こっちで着替える!」
真っ赤な顔で恥ずかしさを誤魔化すように、凛は足早に俺の部屋の脱衣所へと駆け込んでいった。
「あ、でも着替え中に入っちゃうと危ないから、今度ドアにかける『お着替え中』の札でも買ってくるか」
「……賛成ー!」
ドアの向こうから聞こえる少し拗ねたような声に、俺は一人でクスッと笑ってしまった。
凛がすっぴん&部屋着に着替えてリラックスモードになった後。
「じゃあ、俺も今日買ってきたやつ、一回着てみるか」
俺は買ってきたばかりのオフホワイトのニットに着替え、その上から凛が見立ててくれたチャコールグレーの新しいエプロンを身につけた。
「どうかな。やっぱり変じゃないか?」
「うんっ、すっごく似合ってる! ……あっ、でも、エプロンの紐が少し捩れてるかも」
ソファに座っていた凛が立ち上がり、「直してあげる」と俺の背後に回り込んだ。
てっきり腰の紐を結び直してくれるのかと思いきや——。
「……凛?」
背中に、柔らかくて温かい感触がピタッと押し当てられた。
同時に、俺のお腹のあたりに凛の細い腕が回され、思い切りギュッと抱きしめられる。
「……今日、外でいっぱい気を張ったから、ちょっとだけ充電……」
背中に顔を埋めたまま、くぐもった声で甘えてくる凛。
その可愛らしさと体温に俺の心臓も跳ね上がったが……今日は、背中越しだけじゃ満足できなかった。
俺は自分のお腹に回されている凛の腕をそっと掴み、優しく引き剥がした。
「えっ……? あ、ごめん、嫌だった……?」
嫌がられたと勘違いしたのか、凛が少し不安そうな声を漏らす。
俺はそのまま振り返り、俺を見上げる凛と真正面から向き合った。
そして、両腕を広げて、彼女の目を見つめて言った。
「……はい、おいで」
「っ——!」
凛の肩がビクッと跳ね、顔が一瞬で林檎のように真っ赤に染まる。
数秒のフリーズの後、彼女は「〜〜っ!」と声にならない悲鳴を上げながら、今度は正面から俺の胸に思い切り飛び込んできた。
「朝陽くんのバカ……っ。」
「はは、充電するならこっちの方がいいだろ」
俺の胸にグリグリとおでこを押し付けてくる凛の背中に腕を回し、ギュッと抱きしめ返す。
シャンプーのいい香りと、伝わってくる確かな体温。
外の世界がどれだけ広がっても、俺の腕の中にすっぽり収まるこの柔らかくて愛おしい存在だけは、絶対に手放したくないと強く思った。
しばらくそうして充電タイムを満喫した後。
「さて、お腹も空いたし晩御飯にするか」
「うん! 何作るの?」
「……とその前に、着替えるわ」
俺は凛から離れ、新しいエプロンとニットを脱いだ。
「えっ、なんで? そのまま作ればいいのに」
「せっかくお前が選んでくれた服とエプロンだぞ。油跳ねとか、料理の匂いで汚したくないからな」
そう言って、いつもの着慣れたスウェットと、少し色褪せた家庭的なエプロンを身につける。
「……もう。サラッと言うんだから」
「なんか言ったか?」
「なんでもありませーん!」
キッチンに立ち、冷蔵庫の中身を確認する。
遅い時間だし、疲れた胃にも優しいものがいい。
白菜と豚バラ肉が少しずつ残っていたので、今日は『豚バラ肉と白菜のミルフィーユ小鍋』にすることにした。
土鍋に白菜と豚肉を交互に挟んだものを敷き詰め、和風出汁を注いで火にかける。
グツグツと煮え立ってくると、出汁の優しい香りがキッチンに広がった。副菜には、サッと作れる定番の『だし巻き卵』。
「はい、お待たせ。今日はポン酢でさっぱり食べよう」
「わぁ〜、ゆずのいい匂い……!」
熱々の豚肉と白菜を取り皿にとり、ゆずポン酢を少しだけかけて口に運ぶ。
豚肉の甘みと、出汁をたっぷり吸った白菜の甘みが口の中でジュワッと広がり、ポン酢の酸味がそれをさっぱりとまとめてくれる。
「ん〜っ……! 美味しいっ。疲れた体に染み渡るよぉ……」
「よかった。だし巻き卵も熱いうちに食えよ」
「うんっ!」
いつもの服で、いつもの料理を、こうして向かい合って食べる。
新しい食器や機材を買って、ワクワクするような予定も増えたけど、俺にとって一番大切なのは、この「変わらない日常」なんだと、心からそう思えた。
食後、順番にお風呂を済ませて凜の部屋に移動し、いつもの日課であるマッサージタイム。
すっかり体がほぐれてトロンとした凛に温かいお茶を渡し、俺はソファではなく、床に敷いたラグの上にペタンと座った。
ローテーブルの上にノートパソコンを置き、YouTubeのチャンネル開設のページを開く。
「えーっと、まずはGoogleアカウントの作成からか……」
カチャカチャとキーボードを叩いていると、背後からススス……と気配が近づいてきた。
そして次の瞬間。
「よいしょ、っと」
胡坐をかくようにして開いていた俺の足の間に、凛が後ろ向きでストンと座り込んできた。
そして、俺の胸に自分の背中を完全に預け、コロンと頭を乗せてくる。
「……お前、そこ自分の指定席だと思ってるだろ」
「うん。一番安心する場所」
えへへ、と笑いながら俺の腕に自分の腕を絡ませてくる凛。
完全にゼロ距離。風呂上がりの石鹸と、甘いシャンプーの香りが鼻腔をくすぐり、俺の心拍数はまたしても跳ね上がってしまう。
「……で、どう? チャンネル、作れそう?」
「あ、ああ……。今、アカウントの設定をしてるところだ」
ドキドキを悟られないように、努めて冷静な声で返す俺。
足の間にすっぽりと収まる温かい体温を感じながら、二人で一つの画面を覗き込む。
「どんなチャンネル名にしよっか?」
「やっぱり、分かりやすい方がいいのかな。……凛はどう思う?」
「うーん……」
外の世界で色々な人と関わるのも楽しいけれど。
やっぱり俺にとっては、こうして凛とくっつきながら過ごすこの部屋が、世界で一番甘くて、大切な居場所だった。
第256話、ありがとうございました!




