第217話:氷の令嬢の「喜んで」
ざわめいていた多目的室が、潮が引くように静まり返っていく。
一組から三組までの生徒たち、およそ百人以上の視線が、多目的室の中央で向かい合う俺と凛に注がれていた。
「なんであの二人が?」
「瀬戸と冬月さんって、接点あったっけ?」
周囲からそんな戸惑いのひそひそ声が聞こえてくる。
無理もない。
学校での俺たちは、今まで徹底して他人のフリを貫いてきたのだから。
凛は、俺の目の前でスッと背筋を伸ばして立っていた。
周りの生徒たちから見れば、それは近寄りがたい「氷の令嬢」の姿そのものだっただろう。
凛とした佇まいで、表情には一切の隙がない。
でも、俺には分かっていた。
彼女の少しだけ揺れる瞳の奥に、ほんの少しの緊張と、それ以上の大きな期待が隠されていることを。
(……大丈夫。俺が全部、引き受けるから)
俺は小さく息を吸い込み、覚悟を決めた。
そして、周囲の全員に聞こえるように、はっきりとした声で彼女を呼んだ。
「冬月さん」
「……はい」
俺の呼びかけに、凛が応える。
俺は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返し、この数日間、彼女を悩ませていた煩わしい状況を終わらせるための、たった一つの言葉を紡いだ。
「来週の遊園地。……俺と、一緒に回ってくれないかな」
シンッ、と。
多目的室の空気が、文字通り凍りついたように静まり返った。
「あの地味な瀬戸が、学年一の高嶺の花を誘った」
周囲の誰もが、俺が玉砕する光景を予想して息を呑んだのが分かった。
しかし、次の瞬間。
ピンと張り詰めていた凛の表情が、ふわりとほどけた。
「……喜んで!」
それは、学校では絶対に見せることのない、とびきり甘くて、心底嬉しそうな満面の笑顔だった。
頬を少しだけ赤く染め、花が咲いたように笑う彼女の姿に、周囲の生徒たちが「え……?」と呆然と息を漏らす。
言葉だけじゃない。俺たちは、これ以上ない「証明」を見せつけることにしていた。
「じゃあ、登録行こうか」
「うんっ」
俺がスッと右手を差し出すと、凛は少しの躊躇いもなく自分の左手を重ねてきた。
ただ手を繋ぐだけではない。
指と指の間に互いの指を滑り込ませ、隙間なくしっかりと握り合う「恋人繋ぎ」だ。
ぎゅっと強めに握り返してくる彼女の手のひらの温もりが、少しだけ震えていた俺の心臓をスッと落ち着かせてくれた。
俺たちは手を繋いだまま、先生が座っている登録用のデスクへとゆっくり歩き出した。
その瞬間だった。
状況をようやく理解した多目的室が、爆発したような大歓声と悲鳴に包まれた。
「えええええええええええええっ!?」
「嘘だろ!? 瀬戸と冬月さんが!?」
「手! 手繋いでる! 恋人繋ぎ!!」
「えっ、待って。じゃあ昨日噂になってた『冬月さんの彼氏』って……瀬戸!?」
「マジかよ……いや、でも、なんか二人めっちゃ自然じゃないか……?」
怒号のような驚きの声が四方八方から飛び交う。
俺たちを囲んでいた人だかりが、モーセの十戒のようにサァッと左右に割れて道を作った。
周囲の男子たちは頭を抱え、女子たちは目を丸くして俺たちの繋がれた手を見つめている。
そんなパニック状態の群衆の端っこで。
大輝と寺田さん、そして佐藤さんの三人が並んで立っていた。
大輝はニヤニヤしながら親指をグッと立ててみせ、寺田さんと佐藤さんは「やったね!」という顔で小さく拍手をしてくれている。
最高の親友たちの顔を見て、俺は思わず小さく吹き出してしまった。
「せ、先生。登録、お願いします」
俺たちが手を繋いだままデスクの前に立つと、学年主任の先生はポカンと口を開けたまま固まっていた。
「あ、ああ……? ええと、お前ら……」
「二組の冬月凛と、一組の瀬戸朝陽です。この二人で回ります。……ダメですか?」
凛が小首を傾げて尋ねると、先生はハッと我に返り、慌てて名簿にペンを走らせた。
「い、いや、ダメじゃないが……。お前ら、いつの間に……いや、詮索はよそう。よし、登録したぞ。当日、ハメを外しすぎないように気をつけろよ」
「はい。ありがとうございます」
俺が用紙を受け取り、頭を下げる。
背後からは、未だに「嘘だろ……」「瀬戸、お前いつの間に……!」というざわめきが絶え間なく聞こえていた。
俺の隣で、凛が俺の手をもう一度ぎゅっと握りしめる。
見下ろすと、彼女はイタズラが成功した子供のように、誇らしげで、幸せそうな笑顔を浮かべていた。
もう、誰にも隠す必要はない。
俺たちは今日、「公認の恋人」になったのだ。
放課後。
班決めが終わった後も、学校中は俺と凛の話題で持ちきりだった。廊下を歩けば何度も二度見され、遠くから指を差されることもあった。
でも、帰路につく俺たちの足取りは、羽が生えたように軽かった。
なぜなら、夕日でオレンジ色に染まる通学路を、こうして堂々と手を繋いで歩けるようになったからだ。
「……すごい騒ぎになっちゃったね、朝陽くん」
俺の少し後ろを歩く凛が、繋いだ手を前後に揺らしながらくすくすと笑う。
「だな。明日はもっと質問攻めに遭うぞ、きっと」
「ふふっ、平気だよ。だって、もう嘘をつかなくていいんだもん。朝陽くんが私の彼氏だって、堂々と言えるから」
凛が嬉しそうに俺の顔を見上げてくる。
その真っ直ぐな瞳を見ていたら、俺の中で燻っていた「自分なんかが彼女の隣に立っていいのだろうか」という小さな不安の欠片も、綺麗さっぱり消え去っていくのを感じた。
「俺も……凛とこうして手を繋いで帰れるのが、すげえ嬉しいよ」
「えへへ……。ねえ、朝陽くん。来週の遊園地、すっごく楽しみだね」
「ああ、思いっきり楽しもうな」
繋いだ手に少しだけ力を込める。
誰の目も気にすることなく、ただ好きな人と一緒に歩く。そんな当たり前の日常が、今はたまらなく愛おしかった。
俺たちの新しい生活は、今、ここから本当に始まったのだ。
第217話、ありがとうございました!




