第204話:運命の日の静けさと、勝負服の彼女
10月31日、土曜日。
目を覚まし、ベッドの上で静かに天井を見つめる。
(今日、とうとう言うんだな)
自分でも驚くほど、心はスッと凪いでいた。
ずっと抱えていた「本当に俺なんかでいいのか」という迷いや、「周りからどう見られるか」という不安。そういったものが、今はすっかり消え去っている。
不思議と緊張はなかった。
むしろ、ずっと保留にしてしまっていたこの曖昧な関係を今日で終わらせて、胸を張って彼女の隣を歩けるようになることに、ホッとしている自分がいた。
昼間は、いつも通り201号室で一緒に昼飯を食べ、のんびりとテレビを見ながら穏やかな時間を過ごした。
「夜は寒いから、あったかくしないとね」と笑う凛の顔を見ているだけで、俺の決意はより一層固いものになっていく。
夕方になり、「それじゃあ、あとでね」と一度お互いの部屋に戻り、出発の準備を始めた。
俺は、以前凛と一緒に買いに行った勝負服のチェスターコートに袖を通し、少しだけ髪を整えてから部屋を出た。
凛の準備にはもう少し時間がかかりそうだったので、俺はアパートの階段を下り、外で待つことにした。
秋の冷たい風が頬を撫でる。
吐く息がうっすらと白く染まるのを見つめながら、俺はふと、ここまでの日々を振り返っていた。
思えば、すべてはあの日から始まったんだ。
学校から帰ってきた俺が、隣の202号室の前で、お腹を空かせてうずくまっている『氷の令嬢』を見つけたあの日。
放っておけなくて、俺の部屋で手料理を振る舞ったら、「あなたの作るご飯が、もっと食べたい」と言われたこと。
そこから、一緒にご飯を食べる関係になった。
夏の暑い日、彼女の部屋のクーラーが壊れて、10日間うちで一緒に同居生活を送ったこともあった。
二人で花火を見たり、取材旅行にも行ったり。
そして何より、彼女の方から真っ直ぐに「好き」だと告白されたこと。
少しずつ、彼女が俺の前でだけ見せてくれる笑顔が増えていった。
どれもこれも、俺にとっては何にも代えがたい大切な思い出だ。
ガチャッ。
二階の方から、ドアが開く音がした。
俺が階段の方へ振り返ると、そこには、息を呑むほど綺麗な少女が立っていた。
艶やかな長い黒髪に、ちょこんと乗せられた可愛らしいベレー帽。
あの日、俺が選んだ白いニットと、上品なノーカラーコート。
夕暮れの光に照らされたその姿は、まるで雑誌から抜け出してきたかのように可憐で、目を奪われる。
「……お待たせ、朝陽くん。どう、かな……?」
階段を降りてきた凛が、少し恥ずかしそうに上目遣いで俺を見つめる。
その大きな瞳が、不安と期待で揺れていた。
(ああ……俺はやっぱり、この子が好きなんだな)
完璧にめかしこんできた凛を見た瞬間。
頭の芯が痺れるような、純粋で、ひたすらに強く甘い感情が胸いっぱいに溢れ出した。
「氷の令嬢」と持て囃される容姿の美しさだけじゃない。
俺のためにこんなにも可愛く着飾ってくれる健気さが、たまらなく愛おしい。
「すごく可愛いよ。ベレー帽も、ニットも、全部似合ってる」
俺が真っ直ぐに目を見てストレートに褒めると、凛はパァッと顔を輝かせ、林檎のように頬を赤く染めた。
「えへへ……ありがとう。朝陽くんも、そのコートすごく似合ってる。すっごくかっこいいよ」
はにかむように微笑む彼女を見て、俺の心臓はすでに早鐘を打っていた。
俺は自然な流れでスッと右手を差し出す。
凛は嬉しそうに目を細め、迷うことなくその手を取った。
俺の指と凛の指が絡み合い、ぎゅっと隙間なく結びつく。恋人つなぎだ。
手から伝わる彼女の温もりが、今日という日を特別なものにしてくれるような気がした。
「よし、行くか」
「うんっ!」
俺たちはしっかりと手を繋いだまま、バス停へと向かって歩き出した。
バスの中は、同じようにイルミネーション会場へ向かうであろうカップルや家族連れで混雑していた。
俺たちは二人掛けの席に並んで座り、肩を寄せ合う。
少し前までの俺なら、学校の奴らに見られたらどうしようとか、氷の令嬢と一緒にいるところを見られて騒がれないかとか、そんな『周りの目』ばかりを気にしていたはずだ。
でも今は、不思議と何も気にならなかった。
俺の隣には、俺の好きな人がいる。
そして、彼女も俺を想ってくれている。それだけが、今の俺の世界のすべてだった。
「……朝陽くん、手が温かいね」
凛が、繋いだままの手を自分の膝の上に乗せ、嬉しそうに微笑む。
艶やかな黒髪の隙間から覗く白い耳が、少しだけ赤く染まっていた。
「凛が冷え性だからな。着くまで温めといてやるよ」
「ふふっ、ありがとう」
窓の外の景色がどんどん流れていき、やがてバスは目的地の大型広場へと到着した。
バスを降りると、そこにはすでにものすごい数の人が集まっていた。
広場の中央には巨大なメインツリーがそびえ立ち、周囲の木々にも無数の電飾が施されている。
「すごい人だね……!」
「はぐれないように、しっかり捕まってろよ」
俺が繋いだ手に少しだけ力を込めると、凛は嬉しそうにコクリと頷いた。
時刻はまもなく午後六時。
広場に設置されたスピーカーから、明るいアナウンスの声が響き渡る。
『皆様、お待たせいたしました! まもなく、イルミネーションの点灯式が始まります!』
周りの人たちが一斉にカウントダウンの準備を始め、広場の照明がふっと落とされた。
暗闇の中、俺と凛は寄り添い合いながら、目の前の巨大なツリーを見上げる。
いよいよ、運命の夜が幕を開ける。
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