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隣のクラスの「氷の令嬢」が、隣の部屋で空腹のあまり倒れていた件。〜胃袋を掴まれた彼女が、俺の前でだけ「ふにゃふにゃ」になるまで〜  作者: 比津磁界
第2章

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第120話:冷めた記憶と、彼女の懺悔。

見晴らしのいい丘で再会したのは、朝陽くんの心に消えない傷を刻んだ同級生、水城葵でした。

「気持ち悪い」――その一言で、朝陽くんの料理への情熱と自信を打ち砕いた彼女。

けれど、数年の時を経て彼女の口から語られたのは、あまりにも身勝手で、けれどあまりにも中学生らしい、残酷な保身の真実でした。

過去の亡霊と対峙する朝陽くん。その隣で、彼の震える心を守るように凛ちゃんが動きます。

「……瀬戸くん、だよね。本当に、瀬戸くんなんだ」


水城葵の声は、記憶にあるものより少しだけ低く、けれどあの頃と同じ、どこか人を惹きつける透明感を持っていた。

彼女が歩み寄るたび、俺の鼻腔には潮風とは別の、かすかな香水の匂いが入り込む。

俺の体は、自分の意志とは裏腹に硬直していた。

脳裏には、あの放課後の教室の風景が、嫌なほど鮮明にフラッシュバックする。


文化祭の準備期間だった。

菓子作りが好きだった俺は、クラスの連中に頼まれて、寝る間を惜しんでクッキーを焼いていった。

「美味しい」と笑い合う声。その中心にいたのが、クラスの人気者だった葵だった。

俺は、彼女が喜んでくれるのが嬉しかった。

だが、その光景を苦々しく見つめていた男がいた。クラスの主犯格で、葵に想いを寄せていた武田だ。


『……おい。瀬戸。お前、水城に変なもん食わせてんじゃねえよ。気持ちわりいんだよ』


武田の冷たい声。それを合図に、昨日まで「美味しい」と言っていた連中が、一斉に俺を嘲笑い始めた。

そして、俺が縋るような思いで見つめた葵は、武田の顔色を一度だけ伺った後、手に持っていた俺のクッキーを、ゴミ箱に捨てたのだ。


『……ごめん、瀬戸くん。やっぱり、これ……なんか変な味するし、気持ち悪いよ』


あの瞬間の絶望を、俺は今でも忘れていない。

俺が信じていた「料理で誰かを幸せにする」という祈りは、あの日、無残に踏みにじられた。


「……久しぶりだな、水城」


絞り出すような声で、俺はようやく言葉を返した。

隣で俺のシャツの裾を掴んでいる凛の指先に、力がこもる。彼女は何も言わない。けれど、俺の異変を、そして目の前の女性が俺にとって「何者」であるかを、その鋭い感性で察しているようだった。


「瀬戸くん、あの時は、本当に……。私、ずっと謝らなきゃって思ってたの」


葵が視線を伏せ、麦わら帽子の縁をぎゅっと握りしめる。

「……武田くんが、怖かったの。彼、瀬戸くんが私のために料理を作るのを、ずっと怒ってたから。もし私が瀬戸くんを庇ったら、次は私がターゲットにされる。それが怖くて、あんな……あんな酷いことを……」


俺は黙って彼女の言葉を聞いていた。

「本当は、瀬戸くんが作ってくれたもの、大好きだった。……あのクッキーも、本当はすごく美味しかったの。でも、言えなかった。みんなに合わせるしかなかった。……瀬戸くんが学校に来なくなってから、私、自分がしたことの重さに気づいて……」


葵の瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。

「本当に、ごめんなさい。……あなたを、一人にして。あなたの優しさを、踏みにじって……」


彼女の謝罪は、本物なのだろう。

何年もこの罪悪感を抱えて生きてきた。その苦しみも、嘘ではないのかもしれない。

けれど。


(……だから、何だっていうんだ)


彼女が保身のために俺を捨てた。その事実は、彼女がどれだけ泣いて謝っても変わらない。

俺がどれだけ絶望して、どれだけ必死に自分の心に蓋をして、この街を逃げ出したか。

その年月を、彼女の涙が癒やしてくれるわけではない。


俺が言葉に詰まっていると、隣から小さな、けれど芯の通った声が聞こえた。


「……あの、すみません」


凛が一歩前へ出た。

彼女はカメラを下げ、葵の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。

「……朝陽くんが、どんなに傷ついたか。あなたが何を後悔してきたか。それは私には正確には分かりません。……でも」


凛の声が、少しだけ震えている。怒りのせいか、それとも俺のために勇気を出してくれているせいか。

「今の朝陽くんの料理は、世界一です。……あなたが捨てたものを、私は毎日、一番近くで見ています。……朝陽くんは、自分の力で、新しい居場所を作ったんです」


「凛……」


「だから、謝って楽になろうとしないでください。……朝陽くんが、あなたを許すかどうかは、朝陽くんが決めることです。でも、少なくとも……今の彼は、あなたの言葉一つで壊れるような人じゃありません」


凛が、俺の腕を力強く、温かく掴んだ。

その温もりが、冷え切っていた俺の指先にまで伝わってくる。

ああ、そうか。

俺はもう、あの放課後の教室で一人きり、震えていた少年ではないのだ。

俺には、俺の料理を待ち望み、俺の存在を肯定してくれる人がいる。

サポーターとしてではなく、一人の「瀬戸朝陽」を必要としてくれる、この少女が隣にいる。


俺は大きく深呼吸をし、葵を見据えた。

「……水城。謝ってくれて、ありがとう。……お前がずっと後悔していたことは、伝わった」


葵が期待に満ちた、救いを求めるような瞳で俺を見る。

けれど、俺が告げたのは「許し」の言葉ではなかった。


「……でも、あの時の傷が消えるわけじゃない。俺は、お前達を許すためにここに来たわけじゃないんだ」

「……瀬戸、くん……」

「俺は、今の自分の生活を大切に思っている。……俺の隣にいる彼女が言ってくれた通り、俺はもう、過去の俺じゃない。……だから、もういいんだ。お前の後悔は、お前自身で抱えて生きてくれ。……俺も、俺の人生を歩くから」


葵の頬を、一筋の涙が伝った。

彼女は言葉を失い、ただ呆然と俺たちを見つめていた。

それは、中学時代に俺が彼女に向けていた視線と同じだったのかもしれない。

けれど、今の俺の目には、彼女の姿はもう、それほど大きくは映らなかった。


「……行こう、凛。ロケハンの続きだ」

「……うん。行こう、朝陽くん」


俺たちは葵に背を向け、丘を下り始めた。

背後で、彼女が何かを呟いたような気がしたが、潮風と蝉時雨にかき消されて、俺の耳には届かなかった。


坂道を下る途中、俺たちはしばらく無言だった。

街全体が、夕暮れのオレンジ色に染まり始めている。

凛が描きたがっていた、「懐かしくて、少し切ない、透き通った光」がそこにはあった。


「……朝陽くん。……かっこよかったよ」

ポツリと、凛が呟いた。

「……そうか。……みっともない姿を見せた」

「そんなことない! 朝陽くんが、ちゃんと自分でケリをつけたの、私は尊敬する。……それに、私は本当に思ってるよ。朝陽くんのご飯、世界一だって」


凛が、少しだけ上目遣いに俺を見る。

夕日に照らされた彼女の瞳は、どんな宝石よりも綺麗に輝いていた。

その瞳に映る俺は、もう「気持ち悪い」と言われた少年ではなかった。


「……ありがとう、凛。……お前がいてくれて、助かった」

「……ふふ。サポーターのサポーター、だからね」


凛が俺の手を握り直し、少しだけ歩調を速めた。

過去の呪縛は、完全に消えたわけではない。けれど、それを上書きするほどの確かな熱が、今、俺の手のひらにはあった。


俺たちは、おばあちゃんが予約してくれたホテルへと向かう。

お盆休みの終わり。

二人きりの、特別な夜が始まろうとしていた。

第120話、ありがとうございました!

朝陽くんの過去の清算。葵への「許し」ではなく「決別」を選んだ彼の姿勢に、彼の成長と凛ちゃんへの信頼が表れていましたね。

凛ちゃんが毅然とした態度で葵に言い返したシーンは、彼女が単なる「守られるヒロイン」から、朝陽くんの「心の支え」へと進化した瞬間でもありました。

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