第119話:潮風の駅と、重なる物語の風景。
数回の乗り換えと、あの凄まじい満員電車を乗り越え、二人はついに目的地へと降り立ちます。
朝陽くんにとっては「自らの意志で距離を置いた場所」、凛ちゃんにとっては「命を吹き込む物語の舞台」。
同じ景色を見ているはずなのに、二人の胸に去来する想いは全く対照的でした。
けれど、彼女が隣にいてくれるだけで、見慣れたはずの潮風は、いつもより少しだけ優しく感じられて――。
「……着いたな」
列車のドアが開いた瞬間、都会の駅では決して味わえない、爽やかな熱気が流れ込んできた。
数分前まで車内を支配していたエアコンの乾いた冷気は、一瞬にしてかき消される。代わりに鼻腔をくすぐったのは、微かな磯の香りと、アスファルトが焼ける匂い。そして、鼓膜を震わせるほどに激しい蝉時雨だった。
「……うわぁ、すごい……。海だ、初めて来た……!」
隣で重いカメラバッグを抱えた凛が、感嘆の声を漏らした。
満員電車での密着の余韻で、まだ少し頬を赤らめてはいるものの、彼女の瞳は既にイラストレーターとしての鋭さと、一人の少女としての好奇心でキラキラと輝いている。
だが、感動に浸る前に片付けるべき現実がある。
俺の手には二人の着替えが入ったボストンバッグ、凛の肩には重そうな機材。これを抱えたまま坂の多いこの街を歩くのは無理がある。
「凛、まずは荷物を預けよう。コインロッカー、あっちにあるみたいだ」
「あ、そうだね。……つい舞い上がっちゃった」
小さな駅の隅にある、少し年季の入ったコインロッカー。
俺が自分のバッグと凛の重そうな荷物を手際よく押し込んでいくと、彼女は「ありがとう、助かるよ」と、ホッとしたように肩を回した。
身軽になった俺たちは、駅の小さな改札を抜けて、いよいよ「彼女の物語」の舞台へと足を踏み出した。
駅前の小さなロータリーに出ると、凛は早速、首から下げた一眼レフカメラを構えた。
そして、タブレットに保存してある自分の描きかけのラフ画と、目の前の景色を真剣に見比べ始める。
「見て、朝陽くん! あの商店街の入り口のアーチ、私が写真見て描いてたラフと、雰囲気がそっくり……! やっぱり、ここがモデルだったんだ」
彼女が指差したのは、塗装が剥げかけた、少し時代遅れの商店街のゲートだった。
俺にとっては、小遣いを握りしめてコロッケを買いに行った、ただの生活圏の一部。
けれど、彼女の瞳を通せば、それは「物語の世界をより鮮やかに彩るための、欠かせないピース」へと変わる。
「……あそこの角にあるタバコ屋の横、細い路地があるだろ。そこを抜けると、モデルの防波堤に最短で行けるぞ」
「えっ、本当!? さすが地元民……! 朝陽くん、案内お願いしてもいい?」
凛に促されるまま、俺たちは歩き始めた。
地元を離れる際、叔母さん夫婦には「自分の力で生活できるようになるまで、基本的には戻らない」と伝えてある。
実家に寄るつもりはない。けれど、こうして彼女の隣を歩いていると、逃げ出したはずの過去が、不思議と「悪いもの」ではないように思えてくるから不思議だ。
防波堤にたどり着くと、目の前には視界いっぱいの青が広がっていた。
「……っ、綺麗……」
凛が息を呑み、無我夢中でシャッターを切る。
寄せては返す波の音。テトラポットに砕ける白い飛沫。
「朝陽くん、あそこ! ヒロインが自分と向き合うシーン、この防波堤の角度から見る夕日が絶対必要だったの。……来て良かった。本当に、連れてきてくれてありがとう」
彼女の心からの感謝の言葉に、胸の奥が少しだけ疼いた。
俺の方こそ。お前がいなければ、俺は二度とこの景色を「美しい」と思うことはなかっただろう。
商店街を抜け、海沿いの道を離れると、俺たちは緩やかな坂道へと足を進めた。
街を一望できる、高台にある小さな公園。
そこは、凛が今回の巻で最も重要視している「告白シーン」の舞台のモデルだとされている場所だった。
「……結構、登るんだね。朝陽くん、足、疲れてない?」
「……俺は大丈夫だ。それより、凛のほうが息が上がってるぞ。……カメラ、持つか?」
「大丈夫! これも仕事だもん!」
強がる凛の背中を追いながら、俺の記憶はさらに深く、中学時代の景色へと沈んでいく。
この坂道。
毎日、重い鞄を背負って登った。
自分の居場所を探していた、あの頃。
けれど、現実は甘くはなかった。
仲が良いと思っていた友達に、勇気を出して振る舞った料理を、拒絶されたあの放課後の教室。
その時、主犯格だった男子――武田の冷笑と、周りの同級生たちの冷たい視線。
(……思い出すな)
自分に言い聞かせる。
今は、隣に凛がいる。
俺の料理を楽しみにしてくれて、俺の看病のために街を走り回ってくれた、彼女が。
過去の俺を否定した連中とは違う、確かな絆がここにある。
「……着いたぞ。ここが、この街で一番空が広く見える場所だ」
俺が足を止めると、凛が横に並んだ。
夕暮れにはまだ少し早いが、傾き始めた太陽が海面をキラキラと照らし、街全体を柔らかな光で包み込んでいる。
「……すごい。……言葉にならないや。……朝陽くん、ここでいつも何を考えてたの?」
凛が、優しく問いかけてくる。
「……何だろうな。……早く大人になって、どこか遠くへ行きたい、とか。そんなことばかり考えていた気がするよ」
「……そっか。……でも、その『どこか遠く』で、私と出会ってくれたんだね」
凛が、少しだけ照れくさそうに、でも確かな温かさを持って微笑んだ。
その瞬間、俺の中の澱んでいた何かが、スッと消えていくような感覚があった。
けれど、運命というやつは、時に残酷なタイミングで悪戯を仕掛けてくる。
「……瀬戸、くん?」
静寂を破ったのは、凛の声ではない。
聞き覚えのある、けれど随分と大人びた、震えるような女性の声だった。
俺と凛が同時に振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。
帽子を手にし、驚きに目を見開いている。
整った顔立ち。けれど、どこか影のある、伏せがちな瞳。
「……水城、……葵か?」
中学時代の同級生。
そして、あの時、俺をいじめていた武田が密かに想いを寄せていた相手。
俺の作ったお菓子を、誰よりも「美味しい」と笑って食べてくれていたはずの――そして最後に、誰よりも残酷にそれを拒絶した、少女。
「……やっぱり、瀬戸くんだ。……まさか、こんなところで会えるなんて」
水城葵は、信じられないものを見るような目で俺を見つめていた。
彼女の視線が、俺の隣で戸惑うように立っている凛へと移る。
凛は、俺と彼女の間に流れる「異様な空気」を敏感に察知したのか、俺のシャツの裾をギュッと掴んだ。
「……瀬戸くん、あの……」
葵の声が、震えている。
「……ずっと、謝りたかったの。……あの時のこと。私、ずっと……」
潮風が、一際強く吹き抜けた。
蝉時雨が遠のき、俺の心臓の鼓動だけが、嫌なほど速く打ち鳴らされる。
過去から逃げ出し、新しい居場所を見つけたはずのこの場所で。
俺は、自分が最も封印したかった「記憶」の断片と、正面から向き合うことになった。
第119話、ありがとうございました!
ついに朝陽くんの故郷に到着しました。コインロッカーで身を軽くし、凛ちゃんの「ロケハン」への情熱が、朝陽くんの強張った心を少しずつ解かしていく様子が伝わっていれば嬉しいです。
けれど、物語は一筋縄ではいきません。
一番の理解者である凛ちゃんの前で現れた、水城葵。
彼女が抱えてきた後悔と、朝陽くんが受けた傷。




