第118話:揺れる車内と、二人の鼓動
明日に控えた「聖地巡礼」という名の取材旅行。
けれど、病み上がりの朝陽くんと、看病疲れの凛ちゃんには、まず「休み」が必要です。
「……凛、片付けは俺がやっておくから。昨日頑張ってくれた分、自分の部屋で少しゆっくりしてきたらどうだ?」
お昼ご飯を食べ終えた直後、食器を運ぼうとする凛の手をそっと止めた。
「えっ、でも明日の準備とか……」
「準備はそれぞれ自分の部屋でやればいいし、慌てなくて大丈夫だよ。……凛、昨日の看病でほとんど寝てないだろ? 俺も、もう少し体を休めておきたいんだ」
俺が言葉を選んで伝えると、凛は少しだけ意外そうな顔をした後、納得したように頷いた。
「……そうだね。朝陽くんも、まだ本調子じゃないもんね。……じゃあ、お言葉に甘えて、ちょっと横になってくるね」
凛が隣の自分の部屋へと戻っていく。
静かになったリビングで、俺も自分の寝室へと向かった。
シーツに残る自分の熱はもう引いている。けれど、昨日彼女が側にいてくれたという記憶が、部屋の空気をいつもより柔らかくしている気がした。
目を閉じると、微かな蝉時雨の音と共に、心地よい眠りが俺を包み込んでいった。
数時間の深い眠りから覚めると、体は驚くほど軽くなっていた。
それぞれ自分の部屋で、明日の取材に必要な道具や着替えをバッグに詰める。
しばらくして「……ふぁ、よく寝たぁ」と、リビングに凛が戻ってきた。
夕食は、明日への活力を蓄えるためのスタミナメニュー。
食後、いつものように俺の部屋で、凛のストレッチとマッサージを始めた。
昨日、俺の世話を焼いてくれた彼女の背中を、今日は俺が解していく。
「……気持ちいい……。やっぱり朝陽くんの手、魔法みたい」
「……大げさだよ」
仕上げに、彼女の頭にそっと手を置く。
ゆっくりと、愛おしむように撫でる。
「……おやすみ、凛。」
「うん……おやすみなさい、朝陽くん。荷造り、頑張るね!」
凛が幸せそうに目を細め、自分の部屋へと戻っていった。
早朝。
駅のホームに降り立った瞬間、俺たちは現実の厳しさを知ることになった。
隣の県への移動とはいえ、今日はお盆のUターンラッシュの真っ只中。ホームは大きな荷物を抱えた人々で溢れ返り、殺気立った熱気が渦巻いている。
最初の路線をなんとか乗り継ぎ、主要な乗り換え駅にたどり着いた。
「わ、わわっ……! 凄い人……! 朝陽くん、はぐれちゃいそう」
「こっちだよ、凛。鞄を離さないで」
俺は彼女の手首を掴み、人混みを縫うようにして乗り換えのホームへ向かった。
掲示板を確認しながら、凛が不安そうに俺の顔を覗き込む。
「あとどれくらい……? 結構遠いんだね、朝陽くんの地元」
「……ここから急行に乗って五駅。そこで一度乗り換えて、あとは各駅停車で三つだよ。……座れる見込みは薄いかな」
「五駅と、三つ……。うん、頑張る! 本物の景色を見るためだもんね!」
意気込む凛だったが、滑り込んできた電車は、さっきまでの比ではないほどの混雑ぶりだった。
電車に乗り込んだ瞬間、周囲から強烈な圧力がかかった。
「……っ!」
凛がよろけ、背後のドアにぶつかりそうになったその時、俺は迷わず彼女の両脇を塞ぐように、ドアに両手を突いた。
「……動かないで。危ないから」
「あ……」
凛を俺の体とドアの間に閉じ込める、いわゆる「壁ドン」の形。
電車が大きく揺れるたび、彼女の柔らかな温もりが、俺の胸元にダイレクトに伝わってくる。
近すぎる。
お互いの吐息がかかる距離。
凛の大きな瞳が、驚いたように揺れ、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
(……うるさいな)
自分の鼓動が、耳の奥で鐘を鳴らしたように激しく打ち鳴らされている。
それを彼女に悟られたくなくて、俺は努めて無表情を保とうとしたが、心臓の音までは制御できなかった。
凛が恐るおそる、俺のシャツの裾をギュッと掴んだ。
そして、人混みの圧力に耐えかねたように、俺の胸に顔を埋めるようにして抱きついてきた。
「……ご、ごめんね! でも、こ、このほうが安定するから! ほら、揺れても転ばないし、ね?」
耳元で聞こえた彼女の声は、震えていて、今にも消えそうだった。
安定するから――。
その震える声が、熱っぽい吐息と共に俺の胸を焦がす。
俺のシャツを掴む彼女の指先の震え。
俺の胸に押し当てられた彼女の、驚くほど速い鼓動。
それが俺の心拍と重なり、溶け合って、一つの大きな音になっていく。
俺は彼女の体温を逃さないように、ドアを突く腕にさらに力を込めた。
電車の騒音も、他人の話し声も、今は遠い世界の出来事のようだ。
自分の腕の中に収まった、小さくて温かい存在。
故郷へ向かう列車の中。
お互いの高鳴る鼓動を隠せないまま、俺たちの特別な「聖地巡礼」が本格的に幕を開けた。
第118話、ありがとうございました!
お互いに自分の荷造りを済ませ、万全の体調で挑んだはずの満員電車。
「安定するから」という凛ちゃんの精一杯の言い訳と、それに応えるように速くなっていく二人の鼓動……。
隣の県への短いようで長い旅。この密着状態のまま、二人は目的地へと向かいます。




