第117話:詰まったペン先と、導きの故郷。
朝陽くんの風邪はすっかり良くなり、今日はお礼を兼ねた朝食から一日が始まります。
けれど、昨日奮闘してくれた凛ちゃんには、看病疲れとは別の悩みがあるようで……。
「描けない……情景が浮かばないの……」
「……凛、無理に起きなくていいって言っただろ」
朝、キッチンで味噌汁の香りを立たせていると、目をこすりながら凛がリビングに現れた。
昨日の看病疲れと、深夜まで粘っていた仕事のせいで、彼女の足取りはどこか危うい。
「……だって、朝陽くんが作ったご飯、温かいうちに食べたいもん」
そう言って照れくさそうに笑う彼女に、俺は昨日の感謝を込めて、炊き立てのご飯と焼き魚、出汁巻き卵を並べた。
「美味しい……。やっぱり、朝陽くんのご飯を食べると元気が出るね」
凛が幸せそうに頬張る姿を見て、俺の心もようやく落ち着きを取り戻す。
「……やっぱり、ここがどうしても描けない」
凛がテーブルに広げたタブレットには、彼女が参考資料として集めた「モデル地候補」の写真が並んでいた。
次巻のクライマックス。夕暮れの街並みを背に、ヒロインが微笑む重要なカット。
凛はその資料写真を指でなぞりながら、小さくため息をついた。
「もっとこう、その場所に立っている人だけが感じる『空気』を描きたいのに……。写真だけだと、どこか表面的な感じがしちゃうんだよね」
俺がその写真を覗き込むと、そこには見覚えのある景色が写っていた。
古い石段。海を見下ろす高台。潮風に削られた看板。
「……ここ、知ってるぞ」
「えっ?」
「俺が中学生まで過ごした地元だ。……この坂道、家から学校に行く時によく通ってた」
俺の言葉に、凛はパッと顔を輝かせた。
「本当!? すごい偶然……! じゃあ、この場所のことも、朝陽くんはよく知ってるんだ」
「……ああ。そこは、夕暮れ時になると海からの反射で、街全体がオレンジ色に透き通るんだ。写真じゃその光の温かさまでは映らないからな」
語りながら、自分の記憶が鮮明に蘇ってくるのを感じる。
けれど、凛の表情は次第に曇っていった。
彼女は知っている。俺が自分の足で立ち、自分の道を進むために、あえてあの街を離れる選択をしたことを。
安易に戻る場所ではないと決めていたことを、彼女は尊重してくれていた。
「……でも、朝陽くんにとっては、特別な意味がある場所でしょ? 自分の意志で離れた場所だよね?私の仕事のために行かせるなんて……本当に、いいの?」
凛の瞳には、仕事への情熱よりも、俺の覚悟を気遣う優しさが溢れていた。
「……昨日のお返しだ」
俺は彼女の視線を真っ直ぐに受け止める。
「それに、クライアントが行き詰まっているなら、それを打破させるのがサポーターの役目だろ。……俺がガイドをしてやる」
その言葉に、凛は少しだけ視線を揺らした後、「……ありがとう。……甘えちゃうね」と、嬉しそうに微笑んだ。
俺は早速、地元を管理している親戚――叔母さん夫婦に連絡を入れた。
だが、あいにくその日は夫婦揃って出張で家を空けているという。
実は、生存確認のため、毎日ご飯の写真を撮り、地元に住む叔母さんにメッセージを添えて送っている。
一人暮らしを許してもらう条件として、毎日欠かさず続けている約束事だ。
「実家に寄るつもりはないから、ちょうどいいか」と独り言ちていると、おばあ様に凜がメッセージを送ったようで
「まぁ! 凛が取材に行きたいの? それは素敵ね。宿ならおばあちゃんに任せなさい」
おばあちゃんは弾んだ声でそう言うと、すぐに予約完了のメールを送ってきた。
「……あ、おばあちゃんから予約入ったよ。……えっ?」
凛がスマホを覗き込みながら、顔を真っ赤にする。
メールには、『駅前の、一番景色のいいお部屋を押さえたわ。二人でゆっくりしてきなさい』という一文が添えられていた。
「……おばあ様、気が早いというか…なんというか…こんなキャラだったかな…。」
俺は思わず額を押さえた。
おばあちゃんが俺たち(サポーターとして)を応援してくれているのは知っているが、一泊二日で同室、しかもスイートというのはあまりにも刺激が強すぎる。
「……ま、まぁ、取材だからね! 二人でしっかりロケハンしてくるんだから!」
「……そうだな。俺も、ガイド役に徹する」
凛は慌てて着替えの準備を始め、俺はカメラやスケッチ用具のチェックを手伝った。
お盆休みの残り二日。
俺が一度は背を向けた故郷が、彼女の目を通せば、どんな風に映るのだろうか。
サポーター契約の枠を、少しずつ踏み越えていくような予感。
第117話、ありがとうございました!
凛ちゃんのピンチを救うために、朝陽くんが故郷への帰還を決意しました。
叔母さんへの生存確認メールという朝陽くんの誠実な習慣や、彼が地元を離れた理由を汲み取って心配する凛ちゃんの優しさが、二人の関係をより深いものにしていますね。
そしておばあちゃんの「スイート同室」という豪快なアシスト!
一泊二日の取材旅行は、波乱と甘い時間の予感しかありません。




