第116話:朝の光と、椅子の上の居眠り姫。
お盆休みも終盤。
昨夜の熱が嘘のように、朝陽くんの体調は回復へと向かっていました。
けれど、ふと目を開けると、そこには自分の部屋に戻らず、ずっと側にいてくれた凜がいて……。
看病される側から、また少しだけ「いつもの二人」に戻る、静かな朝のひとときをお届けします。
カーテンの隙間から差し込む、夏の終わりの少し鋭い朝光が、俺の瞼を貫いた。
昨日まで頭を支配していた、あの鉛のような重みはない。喉の焼けるような痛みも、関節の軋みも、驚くほどきれいに消え去っていた。
枕元の体温計を脇に挟み、数秒後の電子音を確認する。
36.2°C。
「……下がったか」
朦朧とする意識の中で聞いた、彼女の本をめくる音。
額に触れた、冷えピタのひんやりとした刺激。
そして、微かに残る、あの「バニラの匂い」。
サポーターとして、自分の体調管理すらままならなかった失態。それを、彼女が一生懸命に穴埋めしてくれた。
情けなさと、それを上回るほどの深い安堵が、胸の奥で静かに溶けていくのを感じた。
俺はゆっくりと上体を起こし、深く息を吐き出した。
霧が晴れたような爽快感。……けれど、その静寂は、すぐに破られることとなる。
「…………っ」
視線を落とした瞬間、俺は息を呑んで固まった。
ベッドの脇に置かれた椅子。
そこに、凛が座ったまま、ベッドの端に突っ伏して眠っていたのだ。
「……お前、結局帰らなかったのか」
足元には、昨夜読みかけだった文庫本が力なく落ちている。
ゆったりとした部屋着の肩口が少しだけはだけて、無防備な鎖骨が朝日に晒されていた。
規則正しい、穏やかな寝息。
十日間の同居中、彼女が俺の前でこんなに無防備に眠ったことは、一度もなかった。
「……無理しすぎだ、お前も」
サポーターとして、彼女を守るべき俺が。
彼女をこんなところで、椅子に座ったまま夜を明かさせるなんて。
呆れと、申し訳なさと、そして胸の奥がギュッと締め付けられるような、底なしの感謝。
俺は彼女の寝顔をじっと見つめながら、その頬を、指先でそっと触りたくなる衝動を必死に抑えていた。
このままここで眠らせておくわけにはいかない。
けれど、せっかく深く眠っている彼女を、今すぐ起こすのもためらわれた。
「……せめて、これくらいは」
俺はクローゼットから薄手の毛布を持ってくると、彼女の肩にそっとかけた。
その瞬間、凛の髪が俺の頬を微かにかすめ、昨日の、あの懐かしい匂いが鼻腔をくすぐった。
俺の手が、毛布を整えようと彼女の肩に触れた、その時だった。
「……んぅ。……朝陽くん?」
凛が身じろぎをして、ゆっくりと目を開けた。
寝起きの、まだ焦点の定まらない、とろんとした瞳。
それが俺を捉えた瞬間、霧が晴れるように驚きへと変わった。
「あ! 朝陽くん! 起きたの!?」
凛が弾かれたように飛び起き、そのまま俺の肩を掴んでベッドへ押し戻した。
「ダメ! 病人は大人しく寝てなきゃ! ……熱! 熱どうなった!?」
起きたばかりの混乱した頭で、彼女は俺の体調だけを心配している。
俺が「熱は下がった」と答えようとした、その時だ。
凛がいきなり、自分の額を俺の額に、こっつん、と当てる。
「…………っ!?」
あまりの突然の出来事に、俺の思考は完全にフリーズした。
視界を占めるのは、彼女の驚きに満ちた瞳と、長い睫毛。
鼻先が触れそうなほどの、至近距離。
重なる視線。
心臓が、鐘を鳴らしたように激しく跳ね上がる。
昨日の熱よりもずっと、今の俺の体温の方が高いんじゃないか。そう思うほどの熱気が、全身を駆け巡った。
凛は俺の動揺に気づく様子もなく、真剣そのものの眼差しで、おでこを通じて俺の体温を測っている。
「……あ。本当だ。……熱、ない」
凛がゆっくりと額を離し、安堵したようにへなへなと力が抜けたような笑顔を見せた。
「良かったぁ……。本当に、心配したんだから」
その笑顔を見た瞬間、俺の胸の奥にあった強情な部分は、跡形もなく崩れ去っていた。
サポーターとして、彼女を守る。
……けれど、俺もまた、彼女に守られていたのだと。
その事実が、今はただ、ひどく温かくて、愛おしかった。
「お腹空いたでしょ? 私、またお粥作る!」
凛が意気揚々と、エプロンの紐を締め直そうとする。
「……いや、お粥はもういい。……今日は俺が、何か作る」
「ダメ! 病人は寝てて!」
「もう治った。サポーターとしての仕事だ」
凛にポカポカと(優しく)叩かれながらも、俺は久しぶりに感じる「いつもの二人」のやり取りに、つい口元が緩んでしまうのを止められなかった。
立場が逆転した、看病の夜。
けれど、霧が晴れた朝。
俺たちの間には、昨日までにはなかった、甘くて、少しだけ特別な余韻が、確かに残っていた。
第116話、ありがとうございました!
朝陽くん、完全復活!……と言いたいところですが、凛ちゃんの不意打ち「おでこ検温」には、熱以上のダメージ?を受けてしまったようですね。
「サポーター」という言葉がなくても、お互いのことを当たり前に想い合っている二人の姿に、書いているこちらも口角が上がってしまいます。




