第115話:お粥と、あーん。
凛ちゃん特製のお粥を食べ、少しだけ人心地ついた朝陽くん。
けれど、彼は病人になっても「サポーター」としての自分が抜けず、つい凛ちゃんの仕事の心配をしてしまいます。
そんな彼に、凛ちゃんが「今日は書かないって決めたの!」と真っ直ぐな想いをぶつける、少し熱くて心地よい午後をお届けします。
熱に浮かされた意識の底で、重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
視界はまだ白く霞み、頭の芯がジンジンと痺れている。薬が効いてきたのか、数時間前よりは呼吸が楽になった気がした。
ふと、枕元に気配を感じて視線を巡らせる。
そこには、俺の学習机から持ってきたらしい椅子に座り、じっと俺の顔を覗き込んでいる凛の姿があった。
「…………っ」
目が合った瞬間、凛が弾かれたように肩を揺らした。
いつもは一人きりの空間に、誰かがいる。それも、こんなに近くに。
普段の俺なら、きっと何て言っていいか分からず言葉に詰まっていただろう。けれど、熱のせいで思考が鈍っているせいか、彼女との距離が「異常に近い」という事実に、不思議な心地よさを覚えていた。
「……凛、か?」
掠れた声で呼ぶと、彼女は「あ……起きた?」と、どこかホッとしたような顔で微笑んだ。
「水、飲む? まだ、どこか痛い?」
「……いや、大丈夫だ。……ずっと、そこにいたのか」
「えっ、あ、うん。……朝陽くん、寝てる時に眉間にシワ寄せてたから。……無理ばっかりして、本当に心配したんだよ」
凛がボソッと呟きながら、俺の額に貼られた冷えピタの端を、指先でそっと整えた。
その指が微かに俺の眉間に触れる。
いつもなら、つい身を引いてしまいそうなその仕草が、今はひどく温かくて。俺はただ黙って、彼女の指先の温度を感じていた。
「お腹、空いてない? 頑張って作ったんだから、少しでも食べて!」
凛が台所へ駆け込み、温め直したお粥をトレイに乗せて戻ってきた。
「……自分で食べれる」
俺が寝台に手をつき、上体を起こそうとすると、凛が「ダメ!」と俺の肩を優しく制した。
「病人なんだから、今日は私に甘えて。……いいから、大人しく口を開ける!」
凛がスプーンでお粥を掬い、ふーふーと息を吹きかけて冷ます。
それを、俺の口元へ。……いわゆる「あーん」というやつだ。
正直、これまでに経験したことのないほど気恥ずかしい。サポーターとして彼女を支える側である俺が、こんな風に世話を焼かれるなんて、なんだか落ち着かない気分だった。
だが、凛の眼差しがあまりにも真剣で、俺は観念して小さく口を開けた。
「…………っ」
口の中に広がったのは、案の定、少し水の分量が多くて、おまけに塩気が強いお粥だった。
「……どう? やっぱり、しょっぱいかな」
不安そうに眉を下げる彼女に、俺はゆっくりと飲み込んでから答えた。
「……いや、逆に良い。……米も、柔らかくていいな」
「……本当に?失敗してない……?」
「……美味しいよ。……今まで食べたどのお粥より、元気が出る味がする」
お世辞ではない。
火加減も水加減も手探りだっただろうが、そこには彼女が俺のために必死に格闘した時間が詰まっている。
そう思うと、喉を通る熱さがひどく愛おしく感じられた。
結局、俺は人生で一番照れくさくて、一番「美味しい」お粥を、彼女の手によって完食した。
お粥を食べ終え、再び薬を飲んだことで、頭はさらにすっきりとしてきた。
俺が落ち着いたのを見て、凛は空いた食器を片付けようとバタバタと動き始める。
その背中を見ているうちに、俺の中に染み付いた「習性」が顔を出した。
「……凛、もういい。食器は後で俺が洗う。お前は自分の部屋に戻って仕事を…。」
俺の言葉に、凛の動きが止まる。
「今の段階で、お前の進捗を止めるのは本意じゃない。俺のせいでスケジュールが遅れたら、俺がサポーターとしてお前の隣にいる意味がなくなる」
自分なりに彼女を気遣ったつもりだった。だが、凛は振り返ると、眉をひそめて俺を睨んだ。
「……バカ」
「……え?」
「仕事なんて、今日は何も書かないって決めたの! 私が今やりたいのは、朝陽くんの看病だけ! ……これ以上『仕事』の話をしたら、怒るからね?」
凛はそう言い捨てると、リビングから読みかけの文庫本を一冊だけ持ってきて、再び俺の枕元の椅子に腰を下ろした。
「……そんなところで読んでたら、目が疲れるぞ」
「いいの。朝陽くんが寝てるのを見張ってないと、また勝手に起き出して家事とか始めそうでしょ?」
そう言って凛はパタン、と本を開いた。
どうやら、俺が完全に眠りにつくまでここを動く気はないらしい。
一人きりのはずの寝室に、彼女がいる。
本来なら落ち着かないはずの状況なのに、時折聞こえる衣擦れの音や、ページをめくる小さな音が、今は不思議と心地よいリズムに聞こえた。
サポーターとしてではなく、一人の「瀬戸朝陽」として、彼女がすぐ側にいてくれることに、俺は深い安堵を覚えていた。
三十分ほど経っただろうか。
俺がまどろんでいると、本を置く音がして、凛が歩み寄ってくる気配がした。
「冷えピタ、貼り直してあげるね。もう熱くなってるし」
凛が新しい冷えピタを袋から取り出し、俺の額を覗き込む。
距離が、近い。
お風呂上がりの石鹸の香りは消え、代わりに、いつも通りの凜のバニラの香りが漂ってくる。
「…………凛」
俺の指が彼女の腕に触れた瞬間、ふと思いついた疑問を口にしていた。
「……お前、飯は食べたのか?」
凛の動きがピタリと止まった。
「……えっ、あ……」
「お粥の匂いはしたが、お前が何かを食べた気配がなかった。……自分の飯は、後回しにしたのか」
「……もう! 自分の心配だけしてって言ってるでしょ!」
凛が真っ赤になって、俺の肩をポカポカと(優しく)叩いた。
「私はいいの! 朝陽くんが治るのが一番なんだから、余計なこと考えないで寝てて!」
いつもは俺が彼女に言っているような台詞を、そっくりそのまま返される。
立場が逆転したことで見えてくる、彼女の真っ直ぐな献身。
俺は少しだけ苦笑いしながら、彼女に導かれるように再び目を閉じた。
部屋には再び、静かな沈黙と、時折ページをめくる音だけが響き始めた。
(……いつもは、俺がこうして彼女を見守っていたんだな)
執筆に集中する彼女の横顔を、コーヒーを淹れながら眺めていた日々。
けれど今は、立場が逆。
彼女が俺を見守り、俺の体調を気遣いながら、ただ俺のためだけに時間を使ってくれている。
その事実に、俺の強情だった部分が、ゆっくりと解かされていくのを感じた。
「サポーター」という役割を一旦忘れて、ただの病人と、その看病をする少女として過ごす午後。
意識が深い眠りへと沈んでいく直前、俺は胸の内でそっと呟いた。
(……たまには、こういう日も、悪くないな)
心地よいページをめくる音と、お日様の匂い。
そして、時折聞こえる凛の独り言。
俺はこれまでにないほど深く、そして穏やかな眠りの中へと落ちていった。
第115話、ありがとうございました!
凛ちゃん、本当に「仕事はお休み」を貫きましたね!
朝陽くんが心配して仕事の話をしても、「私がやりたいのは看病だけ!」と言い切る姿に、彼女の成長と深い愛情を感じます。
キーボードの音ではなく「本をめくる音」に変わったことで、より静かで親密な、看病回らしい空気感になったかと思います。




