第114話:解けた緊張と、譲れない看病。
十日間の同居、そして昨夜の陽菜ちゃん襲来。
張り詰めていた糸がプツリと切れたのか、鉄壁の瀬戸朝陽くんがまさかのダウン。
いつも通り「ただいま」とやってきた凛ちゃんが見たのは、熱にうなされる朝陽くんの姿でした。
「……くそ、体が重い……」
目が覚めた瞬間、自分の異変を察知した。
頭を重い金槌で叩かれているような鈍い痛み。喉は焼け付くように熱く、節々が鉛のように重い。
なんとか枕元の体温計を手に取り、脇に挟む。数秒後の電子音は、非情な数字を告げていた。
38.5°C。
「……まあ、そうだよな…。」
昨夜、陽菜さんを見送った後の心地よい疲れ。あれが、ただの疲れではなかったらしい。
不規則な睡眠や、ずっと気を張っていた反動が一気に来たのだろう。
凛のために朝飯を作らなきゃいけないのに、シーツから体を剥がすことすらままならなかった。
(……せめて、同居中にならなくて良かった)
朦朧とする意識の中で、そんな考えが脳裏をよぎる。
あの最中に俺が倒れていたら、凛の仕事のサポートはできなかっただろうし、何より彼女に余計な不安を背負わせていたはずだ。
不幸中の幸いか。……いや、彼女に「ただいま」と言わせておきながら、寝込んで出迎えもできない今の状況は、情けなくて仕方がなかった。
午前七時。
遠くで、玄関の鍵が開く音がした。
「おはよー、朝陽くん! 昨日のピザ、陽菜がね……って、あれ?」
いつもならキッチンで迎えるはずの俺がいない。
その異変を察知した凛の足音が、廊下をドタバタと駆けてくる。
「朝陽くん!? 」
勢いよく寝室のドアが開いた。
眩しい朝の光を背負って現れた凛は、ベッドで荒い息をついている俺を見て、一瞬で顔をこわばらせた。
「……悪い、凛。……ちょっと、風邪を引いたみたいだ」
「朝陽くん、顔真っ赤じゃない! 待って、今すぐ……」
凛が駆け寄ろうとするのを、俺は掠れた声で制した。
「……近寄るな。……移ったら、困るだろ」
「えっ……」
「……風邪なんか引いたら、スケジュールが遅れる。……いいから、今日は自分の部屋にいろ。……俺は、寝てれば治る」
サポーターとして、彼女の体調を損なうわけにはいかない。
それが今の俺にできる唯一の「仕事」だと思って、あえて突き放すような言い方をした。
だが、凛は一歩も引かなかった。
それどころか、見たこともないような強い眼差しで俺を睨みつけた。
「……バカ。朝陽くんのバカ!」
「……凛?」
「仕事なんてどうでもいい! 移ったって構わない! 私が、朝陽くんの側にいたいの! ……いつも助けてもらってばかりで、こんな時まで私だけ逃げるなんて、そんなの絶対嫌だよ!」
凛の声が、熱で朦朧とする俺の脳に響く。
彼女は俺の制止を無視して、枕元まで来ると、ひんやりとした両手で俺の頬を包み込んだ。
「今日は私が、朝陽くんを助ける番。文句は言わせないからね!」
凛はそう宣言すると、「冷えピタとお薬、あとゼリーとか買ってくる! すぐ戻るから、絶対動かないでよ!」と、嵐のように部屋を飛び出していった。
寝室に一人残されると、玄関の閉まる音が静かに響いた。
しばらくして、外からは激しい蝉時雨。
あんなに暑い中、普段は外に出るのを億劫がる彼女が、俺のために街へ走っている。
俺に「近寄るな」と言われて、あんなに怒って、それでも必死に……。
どれくらい経っただろうか。
再び玄関が開く音がして、肩で息をしながら凛が戻ってきた。
「はぁ、はぁ……っ、買ってきたよ。冷えピタと、お薬と……。あと、どれがいいか分からなかったから、ゼリーいっぱい買っちゃった」
レジ袋を抱えた彼女の額には、汗が滲んでいた。
ビニール袋の中には、様々な味のゼリーやスポーツ飲料が詰め込まれている。
「えっと……まずはこれ。……失礼します」
凛は緊張した面持ちで、冷えピタを俺の額にそっと貼った。
ひんやりとした刺激が、脳の熱を静めていく。
続いて、ゼリーのパウチを開けて、震える手で俺の口元に運んでくれた。
「少しでも食べられそう? ほら、栄養摂らないと」
一口、喉を通る冷たい甘み。
彼女が一生懸命に選んでくれたと思うだけで、それはどんな特効薬よりも効くような気がした。
「お薬も飲める? はい、お水」
凛が背中を支えてくれ、俺は薬を飲み下した。
前回凜が風邪を引いた時に、俺が行ったケアを、今日は彼女が、一歩一歩確かめるように丁寧に行ってくれる。
「……ごめんな、凛。……移したくないっていうのは、本心なんだ」
「分かってるよ。でも、私の本心は『一緒にいたい』なの。……だから、今日だけは私のワガママ、聞いて?」
凛はそう言って、少しだけ困ったように、でも愛おしそうに笑った。
彼女の笑顔が、熱に浮かされた視界の中で、穏やかに輝いていた。
「いつも聞いてる気がするが…。」
「何のことかな?」
立場が逆転した十四日目。
俺は、守ることと同じくらい、誰かに守られることが温かくて、愛おしいものなのだと思い出した。
重い体を引きずるようにして深い眠りに落ちる間際、最後まで握られていた彼女の手の温もりだけが、いつまでも残っていた。
第114話、ありがとうございました!
暑い中、必死にゼリーや冷えピタを買いに走る凛ちゃんの姿を想像するだけで、朝陽くんじゃなくても胸が熱くなりますね。




