第113話:ピザと、親友の安堵。
凛ちゃんと陽菜ちゃんが、ショッピングを終えて戻ってきました。
お祭り以来の再会となる陽菜ちゃん。彼女の目には、あの時よりもさらに深く馴染んでしまった俺と凛の姿がどう映るのか。
生地から捏ねたピザをオーブンへ放り込み、賑やかで、どこか「特別」な晩餐会の始まりです。
その後、駅前のファッションビルで秋物の服を見て回ったけれど、私の心はどこか上の空だった。
「これとか、凜りんに似合いそうじゃない?」
陽菜が差し出してきたブラウス。
「あ、可愛いね。……でも、朝陽くん、可愛いって言ってくれるかな……」
「……」
「……あ、今のなし! 陽菜がいいと思うなら、それが一番だよ!」
慌てて言い直したけれど、陽菜の視線はもう隠しきれない。
「完全に朝陽くん基準で生きてるじゃない……。凜りん、あんたもう、落ちるところまで落ちてるね」
「落ちてないよ! 信頼だよ! サポーターとしての!」
陽菜に突っ込まれるたびに、自分の心の輪郭がはっきりしていくようで、怖くなる。
一度「誰かと一緒にいる心地よさ」を知ってしまった私は、今のこの「陽菜との楽しい時間」の裏側で、無意識に彼の不在を探してしまっていた。
(……朝陽くん、今頃ピザの準備してくれてるのかな)
(……粉まみれになって、真剣な顔で生地を捏ねてるんだろうな)
ふとした瞬間に、彼の不器用な優しさが恋しくなる。
たった数時間離れただけで、私の心はもう、隣の部屋のあの空気を求めていた。
「あーあ! 今日は凜りんのノロケを浴びて、お腹いっぱいだわ!それはそれで楽しいけど!」
午後四時。予定より少し早めに買い物を切り上げ、私たちはマンションへの帰路についた。
陽菜はブーブー文句を言いながらも、どこか楽しそうだ。
「でも、楽しみだな、瀬戸のピザ! …なんだかんだ男の部屋入るの初めてかも…。」
「あはは……。大丈夫だよ!朝陽くんのご飯は、最高なんだから」
口走ってから、また「あ」と口を押さえる。
最高。
いつの間に、私の中で彼はそんな大きな存在になっていたんだろう。
マンションの入り口が見えてくる。
エレベーターが上がり、廊下に出ると、どこからか、香ばしい匂いが漂ってきた。
「……あ。ソースの匂いだ。仕込んでくれてるんだ」
「本当だ! うわ、これ絶対美味しいやつじゃん!」
陽菜がはしゃぎながら足早になる。
私は、彼女の背中を追いかけながら、胸の奥でそっと言葉を繰り返した。
(ただいま、朝陽くん)
ドアを開ける前に、私はもう一度、ワンピースのシワを伸ばした。
朝、彼が「綺麗だ」と言ってくれたこの姿で。
今度は「おかえり」と言ってくれる人の元へ。
キッチンでトマトソースを煮込み、ニンニクの香りをオリーブオイルに移している時だった。
ガチャリ、と玄関の鍵が回る音がした。
……予定より早いな。
「……ただいま、朝陽くん!」
「おかえり」
エプロン姿のまま、キッチンから顔を出す。
リビングに入ってきた凛は、朝、俺が褒めたサックスブルーのワンピース姿のままだった。シワ一つない。
「よっ、瀬戸。お祭り以来だね。今日はお邪魔しちゃうよ」
凛の背後から、佐藤さんが控えめに、でも明るく手を振った。
「……ああ、佐藤さん。……歓迎する。凛がどうしても君にピザを食わせたいと言うからな」
「あはは。凛りん、自分の家みたいに『ただいま』なんて言っちゃって。……なんだか、私の方がお邪魔虫みたいで緊張しちゃうよ。瀬戸、今日はよろしくね」
「そんなことはないさ、ゆっくりしていってくれ」
佐藤さんの言葉に、俺は少しだけ居住まいを正した。凛の「ただいま」は、もう俺にとっても日常になりすぎていて、指摘されるまで違和感すら抱かなかった。
「……座って待ってろ。今から焼き始める」
俺は彼女たちをリビングへと促し、発酵を終えたピザ生地を取り出した。
「……凛、トレイ。あとバジルも用意してくれ」
「はいはい。……あ、こっちのチーズも追加する?」
「ああ、頼む。一口サイズでいい」
佐藤さんがソファでくつろぐ中、俺と凛はキッチンに立っていた。
俺が生地を鮮やかな手つきで伸ばし、そこに凛が、俺の次の動きを読むように具材を並べていく。
「そこ、もう少しソース多めがいいな」
「……分かってる。端っこはカリカリにするんだろ?」
会話は最低限。けれど、お互いが次に何を欲しているのか、どこに手を貸すべきなのかを、身体が自然に分かっている。
十日間の同居で培われた、あまりにも密度の濃い共同作業。
カウンター越しにそれを見ていた佐藤さんが、頬杖をつきながら、感心したように俺たちを見つめていた。
「……ねえ、二人とも。本当に付き合ってないの?もう……なんていうか、言葉がいらない感じだね。見ててちょっと羨ましくなっちゃう」
「……効率を重視しているだけだ」
「そうだよ! 同居してた時に、一番スムーズな動線を研究した結果なんだから!」
俺と凛が声を揃えて否定する。その見事なシンクロ具合に、佐藤さんは「あはは、そういうことにしておくね」と、優しく微笑んでいた。
オーブンから「チーン」と軽快な音が響く。
扉を開けた瞬間、とろけたチーズと焦げたバジルの香りが爆発的に広がった。俺としては、上出来の部類だ。
「……よし、焼けたぞ。熱いうちに食え」
テーブルに焼き立てのマルゲリータを並べる。
「……っ、美味しい! なにこれ、瀬戸、本当に凄いわ……」
佐藤さんが一口食べて、感動したように目を見開いた。
「生地がモチモチで、ソースの深みが全然違う。凛、あんたこれ毎日食べてたの? 本当に大切にされてるんだね」
「でしょ? 朝陽くんのご飯は、世界一なんだから」
凛が自分のことのように誇らしげに胸を張る。
「……大げさだ」
俺は短く返しながらも、自分のピザを美味しそうに頬張る二人を見て、密かに安堵のため息を吐いた。
「……瀬戸。正直、最初はサポーターなんて聞いてびっくりしたけどさ。今日一日凛りんといて、安心したよ」
佐藤さんがピザを頬張ったまま、ふと真面目な顔でこちらを見た。
「……俺はサポーターとしての役目を果たしただけだ。」
「ふふ、謙虚だねぇ。凛、瀬戸みたいな人が隣にいてくれて、本当に良かったね」
佐藤さんの温かい言葉に、凛が少し照れくさそうに「うん……」と頷く。
賑やかで、どこか温かい食卓。俺の静かだった部屋が、三人の笑い声で満たされていく。……悪くない時間だ。
「ふー、食べた食べた! 瀬戸、本当にお邪魔しました。凄く楽しかったし、美味しかった!」
午後九時。佐藤さんを駅まで送るため、三人で夜道を歩く。
夏の夜風が心地よい。
街灯の下、凛が自販機で飲み物を買おうと少し離れた隙に、佐藤さんが俺に歩み寄ってきた。
「瀬戸。……一つだけ、いい?」
「……なんだ」
「お祭りの時よりも、今の瀬戸、ずっと表情が優しくなったね」
佐藤さんに不意を突かれ、俺は夜の闇に視線を逃がした。……表情が、優しい?
「凛りんのこと、よろしくね。あの子、口では強がってるけど、もう瀬戸がいない毎日は考えられないと思うから。」
佐藤さんはいたずらっぽく、でも真剣な眼差しで俺を見つめた。
俺は答えに窮し、小銭を握りしめて戻ってきた凛を見た。
「あ、陽菜! 冷たいお茶、これ」
「ありがと。……じゃあ、またね。二人とも!」
佐藤さんは軽やかな足取りで改札へと消えていった。
佐藤さんを見送った帰り道。
さっきまでの賑やかさが嘘のように、夜の静寂が俺たちを包み込む。
「……陽菜、喜んでくれて良かったね」
「ああ。……もてなした甲斐があった」
マンションに戻った後は、流れるようなルーティンだった。
それぞれお風呂を済ませ、湯上がりの凛に、今日一日歩き回った分のマッサージとストレッチを施す。
「……ふぇ、そこ効く……」なんて情けない声を出す彼女の肩を解しながらも、俺の頭の中では、駅の改札で佐藤さんに言われた言葉がずっと繰り替えされていた。
(……もう瀬戸くんがいない毎日は考えられない、か)
マッサージを終え、俺が立ち上がろうとした時だ。
ベッドの縁に座った凛が、俺のシャツの裾をそっと掴んで引き止めた。
「ねえ、朝陽くん。……今日も、あれ、やってくれる?」
上目遣いに覗き込んでくる、潤んだ瞳。
「……ああ」
凛の部屋に入り、ベッドの縁に腰掛けた彼女の頭に手を置く。
ゆっくりと、慈しむように撫でる。
昨夜よりもずっと、その髪が、その体温が、自分の一部のように馴染んでいる気がした。
(サポーター……。俺は、本当にただのサポーターなんだろうか)
そんな疑念が頭をよぎるが、甘えるように目を細める凛を見て、俺はその思考を止めた。
今はただ、この温もりを守りたい。
自分の部屋に戻った後、俺はなかなか寝付けないまま、壁一枚を隔てて凛と同じ月を見ていた。
第113話、ありがとうございました!
マッサージとお風呂の時間。
それがもはや二人の「日常」として定着している事実に、瀬戸くん自身が一番揺さぶられているのかもしれません。
「サポーター」という言葉で自分を納得させようとする彼と、無自覚に(あるいは自覚的に?)彼を求める凛ちゃん。




