第111話:とっておきのワンピースと、おもてなしピザ
凛ちゃんは親友の陽菜ちゃんと遊びに出かけるため、朝早くからお洒落をして現れます。
「今日の服、どうかな?」
不意打ちの問いかけにドギマギする朝陽くんを残し、彼女は風のように去っていきました。
「おはよ、朝陽くん!」
午前七時過ぎ。
合鍵を使って入ってきた凛の声が、いつもより一段階トーンが高い。
俺はキッチンで自分用のコーヒーを淹れようとして……そのまま、フリーズした。
リビングに現れた彼女は、見慣れたTシャツ姿ではなかった。
淡いサックスブルーの、裾がふんわりと広がるノースリーブのワンピース。
いつもは無造作にまとめている髪も、今日は丁寧にハーフアップに整えられている。
「…………」
「……え、なに。そんなに黙り込まれると、逆に不安になるんだけど。やっぱり、ちょっとやりすぎだったかな?」
凛は自分のワンピースの裾を少し持ち上げ、恥ずかしそうに視線を泳がせた。
普段の彼女を知っているからこそ、そのギャップの破壊力は凄まじい。
俺は熱くなった顔を悟られないよう、視線を逸らしながら短く答えた。
「……いや。別に、やりすぎじゃない。お出かけなんだから、それくらい普通だろ」
「本当? 変じゃない?」
「……ああ。変じゃない」
俺がぶっきらぼうに答えると、凛は「そう?」と少し不服そうに唇を尖らせ、俺の目の前まで歩み寄ってきた。
ふわ、と甘いバニラの香りが鼻をくすぐる。
「じゃあさ、朝陽くん。正直な感想を教えてよ。今日の服、どうかな? 陽菜、結構ファッションに厳しいから、あんまり変な格好して行きたくないんだもん」
そう言って、凛は少し不安げに首をかしげ、俺の目をじっと覗き込んできた。
至近距離で見つめられ、俺は喉の奥が熱くなるのを感じた。
「……すごく、似合ってる。……綺麗だ、と思うぞ」
「…………! 本当? 朝陽くんがそう言ってくれるなら、自信持てるよ!」
凛はパッと顔を輝かせると、嬉しそうに自分の肩を叩いた。
「陽菜と駅前で朝ごはん食べる約束してるから、もう行かなきゃ! 晩ごはん、楽しみにしてるね!」
嵐のようにやってきて、嵐のように去っていく。
パタンと閉まったドアの余韻の中で、俺はしばらくの間、ただ呆然と立ち尽くしていた。
彼女が出ていった後のリビングは、驚くほど静かだった。
テーブルの上には、書き置きのメモが一つ。佐藤さんの好きなトッピングや、凛が食べたいと言っていたサイドメニューの希望が、可愛らしい文字で並んでいる。
「……ピザ、生地から作るか」
俺は一人分のコーヒーを飲み干し、エプロンを外して外出の準備をした。
朝食を食べていないからか、胃のあたりが少しだけ落ち着かない。
けれど、今夜は凛の大切な親友がやってくるのだ。
「瀬戸のご飯、食べてみたい!」と言ってくれた佐藤さんに、せっかくなら美味しいものを食べさせてあげたい。
俺は財布をポケットに入れ、強い日差しが照りつける外へと踏み出した。
外に出ると、蝉の声が耳を打つ。
八月の陽光は容赦なくアスファルトを焼き、陽炎を揺らしていた。
スーパーの自動ドアが開くと、冷房の涼しさが全身を包み込んだ。
俺はカゴを手に取り、まずは粉のコーナーへ向かう。
「強力粉と、薄力粉……。これでいいな」
チーズの棚の前で足を止める。
いつもなら安売りのチーズで済ませるところだが、今日は思い切ってフレッシュなモッツァレラをカゴに入れた。
続いて、佐藤さんが好きだと言っていた照り焼きチキン用の鶏肉も、いつもより少し質の良い国産の若鶏を選ぶ。
凛が自慢げに「これ、朝陽くんが作ったんだよ」と親友に話す姿を想像すると、自然とカゴの中身は充実していった。
レジ袋二つ分、ずっしりとした重み。
それを抱えて家路を急ぐ。
帰宅してすぐに、キッチンに立った。
台を消毒し、粉をふるう。
ぬるま湯に溶かしたイーストの、パン屋さんのような香りが鼻を突く。
ボウルの中で粉と水を混ぜ合わせ、ひとまとまりになったところで、作業台に移す。
「……よし」
生地の端を掴み、台に叩きつける。
グイと押し込み、また捏ねる。
最初はバラバラだった粉が、手のひらの熱で、次第に滑らかで艶やかな弾力を持っていく。
この無心になれる時間が、今の俺には必要だった。
朝、ワンピース姿の彼女を見た時の、あの心臓の跳ね上がり。
それを落ち着かせるように、俺は何度も生地を捏ねた。
(……あいつ、今頃どのへんにいるかな)
ふと時計を見ると、昼を過ぎたところだった。
今頃は佐藤さんと合流して、賑やかにお昼ご飯を食べている頃だろうか。
すべてを知っている佐藤さんのことだ。凛からこの十日間の話も、根掘り葉掘り聞いているに違いない。
そう思うと、少しだけ落ち着かない気分になる。
捏ね上げられた生地をボウルに入れ、暖かい場所で発酵させる。
その間に、トマトソースの仕込みに取り掛かった。
午後二時。
ソースも完成し、具材のカットも終わった。
掃除の行き届いたリビングで、俺は冷たい麦茶を一口飲む。
静かだ。
時計の秒針の音と、遠くで鳴く蝉の声。
十日間、当たり前のようにあった「二人」の気配がないことは、やはり少しだけ不自然に感じられる。
けれど、これは再会を待つための、穏やかな準備の時間だ。
佐藤さんは、俺たちが「同居」していたことも、俺が凛を支えていることも、全部知っている。
だからこそ、妙な気負いは必要ない。
いつも通り、凛が「ただいま」と帰ってこれる場所を整えて、美味しい飯を出す。
それが、今日俺ができる一番の役目だ。
「……さて。掃除するか」
生地は理想的な膨らみを見せている。
あとは、夕暮れと共に響くはずの、あの「チャイム」を待つだけだ。
第111話、ありがとうございました!
服装チェックだけで嵐のように去っていった凛ちゃん。
それを見送った後、一人で黙々とピザの準備をする朝陽くん。
「綺麗だ」と口にした後の気恥ずかしさを、粉まみれになることで紛らわせる……そんな午後の過ごし方は、彼らしいですね。




