第110話:日常と、もう一つの約束。
一度縮まった二人の距離は、そう簡単に元通りにはなりません。
「ただいま」という言葉に込められた凛ちゃんの願い、そして朝陽くんが彼女の寝室で交わす、新しい夜の約束。
「……おはよ、朝陽くん」
午前七時。リビングに現れた凛は、昨夜貸した俺のパーカーを大切そうに抱えていた。
ぐっすり眠れたのだろう。表情には瑞々しさが戻り、少しだけ誇らしげにすら見える。
「……おはよう。よく眠れたみたいだな」
「うん。朝陽くんの匂いに包まれてたら、いつの間にか朝だったよ」
凛はそう言って、貸したパーカーを返してくれる。そこには彼女のバニラの香りが移っていて、受け取った俺の手がわずかに震えた。
朝食は、あえていつも通りのシンプルなメニューにした。
炊きたての米、出汁の効いた味噌汁、そして厚焼き玉子。
「あーあ、明日からは自分で起きなきゃいけないんだね」
「同居が終わるだけだ。朝飯の時間に隣を叩けば、またここで食えるだろ」
「……そうだね。約束だよ?」
「凛。……今日から寝る前、必ず巡回をすることにした」
「……巡回?」
首を傾げる凛。
「寝る直前、僕が君の寝室まで行く。そこで、一日頑張ったご褒美のなでなでをする。……それで、寝られるか?」
凛の瞳が、パッと輝いた。
「……! 毎日? 寝る前に、朝陽くんが私の部屋に来てくれるの?」
「……サポーターの巡回だ。嫌か?」
「嫌なわけないじゃん! ……それなら、寂しくないかも」
凛は満面の笑みを浮かべ、俺の手をギュッと握り締めた。
箸を動かしながら交わす、何気ない会話。けれど、窓から差し込む朝の光が、二人の「特別だった十日間」が日常へと溶けていくのを静かに告げていた。
食後、凛が荷物をまとめて「お隣」へ戻ると、俺はすぐに自分の寝室へと向かった。
扉を開けると、そこにはまだ彼女が十日間過ごした「気配」が濃く残っている。
「…………よし、やるか」
まずは、彼女が使っていたシーツを剥ぎ取る。
シーツの皺一つ、彼女の寝相を物語っているようで、胸の奥がチクりと痛んだ。それを丸めて洗濯機へ放り込み、洗剤を入れる。
ガラガラと回り始めた洗濯機の音が、部屋に満ちていたバニラの香りを、石鹸の清潔な匂いで上書きしていく。
午後は、宿題を終わらせることに没頭した。
ペンの音だけが響く静かな部屋。
集中しているはずなのに、ふとした瞬間に隣の物音を探している自分に、苦笑いするしかなかった。
夕方、凜が入ってくる。
「……あのね、朝陽くん。今日から、お願いがあるの」
「……なんだ?」
「『お邪魔します』って言うの、やめてもいいかな。……『ただいま』って、言いたいんだ」
凛は少しだけ顔を赤くして、俺の顔を伺うように言った。
同居が終わっても、ここを自分の居場所だと思いたい。そんな彼女の切実な願いを、俺が無下にするはずもなかった。
「……好きにしろ。その代わり、俺も『おかえり』しか言わないぞ」
「うん! ……ただいま、朝陽くん!」
「……おかえり、凛」
そのやり取りだけで、冷えかけていたリビングに、また新しい灯がともった気がした。
食卓を囲みながら、凛が不意に切り出した。
「あ、そうだ。明日、陽菜を呼んでもいいかな? ずっと心配かけちゃってたし、朝陽くんの美味しいご飯も食べさせてあげたいなって」
「佐藤さんか……。ああ、構わないぞ。客人が来るなら、少し腕を振るわないとな」
「やった! 陽菜、きっとびっくりするよ」
楽しそうにスマホを操作する凛を見ながら、俺は明日訪れるであろう賑やかな時間を想像して、少しだけ口元を緩めた。
夜。お風呂とストレッチを終え、俺は凛を彼女の部屋まで送り届けた。
彼女の寝室まで。
「……寝れそうか?」
「うん。でも、少しだけドキドキしてる」
凛はベッドに腰掛け、俺を見上げる。
俺は彼女の隣に座り、約束していた「ご褒美」のために手を伸ばした。
ふかふかの枕。太陽の匂いがするシーツ。
その清潔な寝床の中で、俺は彼女の頭をゆっくりと、丁寧に撫でる。
「……今日もお疲れ様。リテイクも、片付けも、よく頑張ったな」
「……えへへ。朝陽くんの手、やっぱりホッとする……」
彼女の目が、とろんと蕩けていく。
「朝陽くんがこうして隣にいてくれるなら……一人でも、ちゃんと寝れそうだよ」
「ああ。すぐ隣にいる。何かあったら壁を叩け」
最後に一度だけ、強めにポン、と頭を叩いて、俺は立ち上がった。
「……おやすみ、凛」
「おやすみなさい、朝陽くん。……また、明日ね」
自分の部屋に戻り、俺は本来のベッドに横たわった。
洗い立てのシーツ。
彼女の匂いはもう、どこにもない。
けれど、不思議と孤独感はなかった。
壁一枚を隔てた向こう側で、彼女が穏やかに眠りについている。
そして明日の夜には、彼女の親友を招いて、また新しい時間が始まる。
サポーターとしての契約は続いている。
けれど、俺たちを繋いでいるのは、もはや契約という言葉だけではない。
夏の夜風がカーテンを揺らす中、俺は心地よい疲れと共に、深い眠りへと沈んでいった。
第110話、ありがとうございました!
「ただいま」という言葉に込めた凛ちゃんの想い。そして、彼女の寝室で交わされた、優しくも確かな約束。
朝陽くんが自分の手で「彼女の気配」を洗い流しつつ、心にはしっかりと彼女を刻み込む描写、いかがでしたでしょうか。




