第109話:戻れないベッドと訪問者
今夜の夕食は、サポーター特製の一杯のラーメン。
「効率」という言葉で寂しさを誤魔化そうとする凛ちゃんと、正論で返す朝陽くん。
「……ふぅ。やっぱり、沁みるなぁ」
凛が、熱い湯気の向こうでふにゃりと眉を下げた。
今夜のメニューは、サポーター特製のチャーシュー麺。
「これ食べ終わったら、本当に終わりなんだね」
「同居が終わるだけだ。明日からも飯は作るし、サポートも続く」
「わかってるけど……。なんだか、卒業式のあとの放課後みたい」
そんな寂しげな空気を振り払うように、俺たちは最後の一滴までスープを飲み干した。
「じゃあ、お風呂……行ってくるね」
「ああ、ゆっくり入ってこい。俺もこっちで済ませる」
凛は、一度「お隣」へと戻っていった。
彼女が出ていった後のリビングは、驚くほど広くて、静かだった。
俺もさっとシャワーを浴び、彼女が夜のルーティンのために戻ってくるのを待つ。
ほどなくして、お風呂上がりの凛が再び俺の部屋にやってきた。
「ねえ、朝陽くん。さっき思ったんだけど、一度お風呂のために自分の家に帰るのって、非効率じゃない? あと、すっごく寂しいし」
「……非効率ではない。別々に入れば待ち時間もないし、同時に入れる。むしろ効率的だ」
「むぅ……。そういうことじゃないのに」
「……寂しいのは、慣れるしかない。ほら、座れ。いつものやるぞ」
俺はあえて正論を突きつけ、彼女の甘えをかわした。
今の俺が彼女を甘やかしてしまえば、いつまでも「仕事」と「プライベート」の境界線が引けなくなってしまうから。
「……ん、そこ、効く……」
静まり返ったリビングで、彼女の筋肉をゆっくりと解していく。
これが終われば、彼女は本当に向こう側の住人に戻ってしまう。
その事実を拒むように、俺の手はいつも以上に丁寧で、優しく動いていた。
「……よし、終わりだ。凛、お疲れ様」
「……。うん、ありがと。……おやすみ、朝陽くん」
「ああ、おやすみ。また明日な」
凛は何度も振り返りながら、自分の部屋へと帰っていった。
一人になった部屋。
俺は本来の自分の寝床である、自室のベッドに向かった。
けれど、寝室の扉を開けた瞬間、俺の足は止まった。
「…………ダメだ。まだ、使えない」
そこには、凛が十日間使っていた名残が色濃く残っていた。
綺麗に整えられたシーツの隙間に、彼女が好むバニラの香りが微かに漂っている。
そこに自分という「異物」が入り込むことに、耐え難い抵抗感があった。
……いや、正直に言えば、彼女の気配が残る場所に身を委ねるのが、今の俺には刺激が強すぎたのだ。
結局、俺はリビングに予備の布団を敷いた。
「……結局、ここか」
俺は苦笑しながら、十日間過ごしたのと同じ場所に横たわった。
眠りは浅かった。
午前二時を回った頃。玄関の鍵が開く微かな音がして、俺は反射的に上体を起こした。
「……誰だ」
リビングのドアがゆっくりと開き、暗闇の中に小さな人影が浮かび上がる。
「……朝陽くん?」
「凛……!? どうした、何かあったのか?」
俺が駆け寄ると、凛はパジャマ姿で、どこか泣きそうな顔をして立っていた。
「……寝れないの。自分の部屋、掃除してもらったからすっごく綺麗だし、お布団もふかふかなのに……」
「……ホコリか?」
「違う。……匂いが、無いの」
凛は俺のシャツの裾をギュッと掴んだ。
「お日様の匂いはするけど、朝陽くんの匂いがしないの。……静かすぎて、自分の心臓の音しか聞こえなくて、怖くなって……」
「……」
「……朝陽くん。……服、貸して」
「は……?」
「朝陽くんが、今日まで着てたやつでもいい。……それを抱っこして寝たら、きっと大丈夫だから」
彼女の切実な瞳に、俺は抗う術を持たなかった。
俺はクローゼットから、薄手のパーカーを取り出し、彼女に差し出した。
凛はそれを両手で受け取ると、鼻先を埋めるようにして深く息を吸い込んだ。
「……ん。これなら、いけるかも」
「……変な趣味だな」
「変じゃないよ。……これがあれば、朝陽くんが隣にいるみたいで、安心して寝られそうな気がするの。……ありがと。明日には、ちゃんと返すから」
凛はパーカーを大事そうに胸に抱え、少しだけ安心したような顔で笑った。
「……じゃあ、今度こそ、おやすみなさい」
「……ああ。おやすみ」
彼女は自分の部屋へと戻っていった。
俺のパーカーに包まれて眠る凛を想像し、俺は顔が熱くなるのを感じた。
……これじゃ、結局俺も寝付けそうにない。
夏の夜。扉一枚隔てた向こう側で、彼女は今、俺の欠片を抱きしめて眠ろうとしている。
その事実が、静まり返った俺の部屋に、静かな熱を灯していた。
第109話、ありがとうございました!
朝陽くんの匂いを求めて深夜に忍び込む凛ちゃん。そして、彼女の残り香があるベッドを使えない朝陽くん。
お互いがお互いの「気配」に支配されている、もどかしい夜ですね。




