第108話:あってないような壁。
凛ちゃんが、昨日「お布団がホコリっぽい」というもっともらしい理由で勝ち取った延長戦も、いよいよ今日が本当の最終日です。
凛ちゃんは納品後のリテイク作業に追われ、朝陽くんは彼女が今夜から「お隣」でぐっすり眠れるよう、部屋の総仕上げに入ります。
同居生活、十一日目の朝。
本来の同居期間を一日過ぎた「延長戦」の朝食は、驚くほど静かに始まった。
「……リテイク、結構あるのか?」
「うん。でも、難しくないから大丈夫。夕方までには終わらせるよ」
トーストを齧りながら、凛がタブレットの画面をスクロールする。
彼女の目はすでに「戦うプロ」のものに戻っていた。
昨日までの甘えたような雰囲気は影を潜め、心地よい緊張感がリビングに漂っている。
「わかった。……俺は今日、約束通りお隣を仕上げておく」
「あ、本当? ありがとう、朝陽くん。助かるよ」
朝食を終えるやいなや、俺は活動を開始した。
まずは凛の部屋から、十日間放置されていた掛け布団と毛布を引っ張り出す。
案の定、独特の湿気と埃っぽさがあった。これらを抱えて、近くのコインランドリーへと走る。
乾燥機の大きなドラムが回り始めるのを見届けてから、一度部屋に戻る。
次はシーツだ。凛の家の洗濯機に、予洗いしたシーツとカバー類を放り込む。
洗剤と柔軟剤の清潔な香りが、静まり返っていた彼女の部屋に少しずつ「生活の気配」を戻していく。
「……よし。次はこれだな」
寝室の隅、ベッドから重いマットレスを引き剥がす。
それをベランダへ運び出し、手すりに立てかけて太陽の光に当てる。
夏の刺すような日差しが、マットレスに溜まった湿気を容赦なく追い出していく。
俺はベランダに立ち、しばしその光景を眺めていた。
隣の窓からは、凛がペンを走らせる「カチカチ」という微かな音が聞こえてくる。
別々の部屋にいながらも、お互いの存在を感じている。
この「扉一枚」の距離感が、本来の俺たちの姿なんだ。
そう自分に言い聞かせ、俺は布団叩きを手に取った。
「パン、パン」という乾いた音が、夏の空に響く。
埃が光の粒となって舞い、太陽の匂いがマットレスに染み込んでいく。
これで今夜、彼女はクシャミをすることなく、深い眠りにつけるはずだ。
正午。一段落した凛を呼び、簡単な、けれど栄養バランスを考えた冷やしうどんを振る舞う。
「ふぅ〜……生き返る。お外、すっごい暑そうだね」
「ああ。でもその分、布団はふかふかになるぞ」
「楽しみだなぁ。……あ、朝陽くん、リテイク終わったよ! 今さっき送信した!」
「……そうか。お疲れ様、凛」
昼食後、俺は再び外へ出た。
コインランドリーで乾燥の終わった布団を回収する。
ドラムから取り出した布団は、驚くほど軽くて温かい。
それを抱えて「お隣」へ戻り、ベランダからマットレスを取り込む。
最後にもう一度、マットレスを念入りに叩き、埃を払う。
そこに、洗い立てでパリッとしたシーツを被せる。
ふっくらと膨らんだ枕と掛け布団をセットすれば、真っ白で清潔な彼女の寝床が完成した。
指先でシーツの端を整えながら、俺は満足感に浸る。
「凛、悪い。ついでにお風呂も掃除していいか?」
「えっ、いいの!? すっごい助かるけど、朝陽くん、疲れちゃうよ?」
「もう一踏ん張りだ。今夜から使えるようにしないとな!」
許可を得て、俺は浴室に籠もった。
十日間、水が止まっていた空間。
鏡の曇りを磨き上げ、排水溝の奥まで徹底的に洗浄する。
タイルの一枚一枚をブラシで擦り、カビの予備軍を根絶やしにする。
かつての俺にとって、掃除は「自分の価値を証明するためのノルマ」でしかなかった。
けれど今は違う。
ここで彼女が一日の疲れを癒す。その瞬間のために、俺はこの空間を磨いている。
それはもはや義務ではなく、一種の祈りに近かった。
一時間後。
浴室は新築のように輝きを取り戻した。
シャワーヘッドから出る水の音が、静かな部屋に清々しく響く。
気づけば、窓の外は夕闇に包まれ始めていた。
シーツの洗濯、布団の天日干し、ベッドメイキング、そしてお風呂掃除。
すべての作業が終わり、俺は凛を呼んだ。
「……できたぞ。確認してくれ」
凛が恐るおそる寝室に入ってくる。
「……わあ。すごい、お日様の匂いがする……!」
彼女はふかふかのベッドに指を沈め、それから浴室を覗いて「ピカピカじゃん!」と声を上げた。
「……ありがとう、朝陽くん。なんだか、自分の部屋じゃないみたいに綺麗」
「今日からは、ここでゆっくり休め。……俺の部屋より、ずっと寝心地がいいはずだ」
俺がそう言うと、凛は嬉しそうに、けれどどこか心細そうな瞳で俺を見上げた。
「うん! ……あ、でもね、朝陽くん」
「……なんだ」
「もし夜、一人で寂しくて寝れなかったら……またそっち(朝陽の部屋)に行ってもいい?」
いたずらっぽく笑ってはいるが、その瞳は少しだけ本気で、俺は言葉に詰まった。
「……扉一枚挟んで隣だろ。……どうしてもっていうなら、追い出したりはしないけどな」
俺が溜め息混じりに答えると、凛は「やった!」と今日一番の笑顔で俺の腕を軽く叩いた。
「言ったね? 追い出さないって言ったもんね! 」
準備はすべて整った。
同居生活という非日常が終わる。
けれど、俺たちの関係は、ここからまた新しい「隣人」としての日常に繋がっていく。
完璧に整えられた彼女の部屋を見て、俺は深い息を吐いた。
第108話、ありがとうございました!
エアコンが直っても、ベッドが整っても、やっぱり離れるのは少しだけ寂しい。
そんな凛ちゃんの「寝れなかったらそっち行くからね?」という宣戦布告(?)に、朝陽くんもまた、どこか救われているのかもしれません。
物理的な距離は戻っても、心の距離はもう「扉一枚」の厚みなんて関係ないほどに近づいています。




