第106話:赦しと救いの手のひら。
同居生活最終日の午後。
凛ちゃんがお隣の片付けに向かい、リビングには朝陽くんとおばあ様の二人だけになりました。
静まり返った部屋で、朝陽くんは静かに語り始めます。
両親の他界、孤独だった日々、そして左腕に刻まれた消えない傷跡。
凛が「お隣」へ戻り、パタンとドアが閉まる音がした。
リビングに残されたのは、俺と、凛のおばあ様の二人だけ。
さっきまでの賑やかな昼食の余韻は消え、部屋にはエアコンの微かな稼働音だけが響いている。
「……話して、くれるかしら」
おばあ様は急かすこともなく、ただ俺の言葉を待っていた。その眼差しは、すべてを包み込むような静謐さを湛えている。
俺はゆっくりと、左腕の袖を捲り上げた。
そこには、白い線となって残る生々しい傷跡がある。
凛にはすべてを話した。けれど、彼女の身内であり、人生の先達であるこの人を前にすると、喉の奥がひりつくような緊張が走る。
「……数年前、事故で両親を亡くしました。その後、叔母夫婦が俺を引き取ってくれたんです」
俺は、ポツリポツリと言葉を紡ぎ始めた。
叔母夫婦は、本当に優しかった。突然現れた親戚の子供を、実の息子のように気遣い、愛してくれた。
けれど、共働きの二人はいつも忙しく、疲れ切っていた。
幼かった俺は、そんな二人を見るのが怖かった。自分という存在が、彼らの負担をさらに増やしているのではないか。そう思うと、申し訳なくてたまらなかった。
「……だから俺は、彼らの『役に立つ道具』になろうとしたんです。家事を完璧にこなし、手のかからない子供でいれば、ここにいてもいい理由ができる。そう思っていました」
自分を消して、相手の望む形になる。それが、俺なりの恩返しであり、居場所を守るための術だった。
けれど、その歪な自己犠牲は、学校でのいじめや、左腕の傷を負うことになった「あの日」の出来事へと繋がっていく。
誰にも甘えず、誰にも頼らず生きること。それが、俺が自分に課した罰だった。
話している間、おばあ様は一度も口を挟まなかった。
ただ、俺の目を真っ直ぐに見つめ、俺の不器用な献身をそのまま受け止めるように聞いてくれていた。
すべてを話し終えた時、俺は力なく視線を落とした。
こんな歪な成り立ちの人間が、彼女の隣にいていいはずがない。
おばあ様に、呆れられるかもしれない。あるいは、悲しそうな顔をされるのかもしれない。
そう覚悟していた俺の視界に、シワの刻まれた、温かい手が伸びてきた。
「……っ」
おばあ様は、俺の傷跡が残る左手を、自身の両手でそっと包み込んだ。
その手は驚くほど優しく、そして微かに震えていた。
「そうだったのね。……優しい子ね、あなたは。でも、ごめんなさいね、朝陽さん。私はそれを聞いても、あなたがこのお部屋に住んでいてくれて良かった、と思ってしまうわ」
「……え?」
顔を上げると、おばあ様の瞳には涙が浮かんでいた。
「あなたのその過去がなければ。もし事故もなく、あなたがそのまま幸せに暮らしていたら……あなたは、凛と出会っていなかった。あなたのその傷があったから、今のあなたがいて、ここにいてくれたのね。……ごめんなさい。でも、ありがとう」
「…………っ」
心臓が、大きく跳ねた。
今まで、この過去は「負の遺産」でしかなかった。隠すべき汚れであり、俺が壊れている証拠だと思っていた。
それを、この人は「出会うために必要だった」と肯定したのだ。俺が、今日までこの形を保って生き延びてきたこと、そのものに感謝を告げたのだ。
「あなたが、ご両親の死に耐え、周りの愛に応えようと必死に生き抜き……こうして生還してくれたおかげで、凛は今まで見たことがないくらい幸せそうな顔をしているわ。あの子を救ってくれて、本当にありがとう」
おばあ様の言葉が、俺の心の奥底、凍りついていた場所にじんわりと染み込んでいく。
「きっとあなたはまだ、誰かに頼るのが怖くて、自分に自信がないのかもしれない。でもね、もうあなたの周りには、お友達も、凛も、私達も、そしてあなたを誰より愛している叔母夫婦だっている。もう、あなたは一人じゃないわ。何かあったら頼りなさい。あなたは人を助けられる人間よ。だから、周りもあなたを助けてくれる。そうして、少しずつ自分を許していけばいいのよ」
おばあ様は俺の手をギュッと握り締め、力強く頷いた。
「あなたなら大丈夫。これからも、凛と二人で助け合っていってね」
「…………あ、…………」
視界が、急激に歪んだ。
止めようとしても、熱いものが次から次へと溢れてくる。
サポーターとして、完璧であろうとしてきた。
誰にも迷惑をかけないよう、感情を殺してきた。
けれど、今、俺の中にいた「あの日の少年」が、ようやく誰かに見つけられ、「ここにいていいんだ」と抱きしめられたような気がした。
俺は声を押し殺して、泣いた。
子供のように、肩を震わせて。
おばあ様は何も言わず、ただ俺が泣き止むまで、ずっとその温かい手で俺の右手を握り続けてくれた。
「……す、すみません。……みっともないところを」
ようやく呼吸を整え、俺は手元のタオルで何度も涙を拭った。
「いいのよ。涙は、心が動いている証拠だもの」
おばあ様はいつもの穏やかな笑顔に戻り、俺にお茶を勧めてくれた。
涙を拭い去り、気持ちを落ち着かせた頃。
お隣との境にあるドアが開き、凛が顔を出した。
「ただいまー! 朝陽くん、片付け一段落したよ! ……って、あれ? 二人でお話し、終わっちゃった?」
凛は不思議そうに俺とおばあ様の顔を見比べた。
俺は少しだけ赤くなっているであろう目を悟られないよう、さりげなく視線を逸らす。
「ふふ、そうね。……何の話をしていたかは秘密よ。凛」
おばあさんはいたずらっぽく笑い、俺を見てウィンクした。
「えー! なにそれ、気になる!」
「いいのよ。さて、私はそろそろ帰るわね。……朝陽さん、ご飯、本当に美味しかったわ。ご馳走様でした」
おばあさんは立ち上がり、玄関まで見送る。
「また定期的にお話ししましょうね。連絡、待っているわよ」
おばあさんの後ろ姿がエレベーターに消えていくまで、俺たちは手を振った。
部屋に戻ると、リビングにはまだ玄米茶の香ばしい匂いが残っていた。
「ねえ、朝陽くん。おばあちゃん、変なこと言ってなかった? 大丈夫?」
凛が心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。
「……ああ。すごく、救われた気分だ」
俺は嘘偽りない本心を口にした。
「……そう? なら、よかった」
凛は安心したように笑い、ソファに座る。
明日からは、扉一枚隔てた関係に戻る。
けれど、もう俺の中に、あの頃のような孤独な「壁」は存在しなかった。
俺の不器用な生き方すら「必要だった」と肯定してくれた人がいる。
俺の存在に「ありがとう」と言ってくれた人がいる。
窓から入り込む風は、まだ夏の熱を孕んでいたが、俺の心には驚くほど清々しく、心地よい風が吹き抜けていた。
俺は大きく息を吐き、隣に座る凛を見た。
「……凛。明日からも、よろしくな」
「……うん! こちらこそ、よろしくね、朝陽くん!」
同居生活の終わりは、俺にとって「完璧な道具」を卒業し、一人の人間として生きるための、本当の始まりだった。
第106話、ありがとうございました。
朝陽くんが長年抱えてきた「負の記憶」が、おばあ様の深い慈愛によって、ついに「必要な過去」へと昇華されました。
「あなたの過去があったから、凛と出会えた。生きていてくれてありがとう」
この言葉は、自分を道具だと思い込んでいた朝陽くんにとって、何よりの救いになったはずです。
彼が流した涙は、過去の自分への弔いであり、明日を生きるための浄化でもありました。




