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隣のクラスの「氷の令嬢」が、隣の部屋で空腹のあまり倒れていた件。〜胃袋を掴まれた彼女が、俺の前でだけ「ふにゃふにゃ」になるまで〜  作者: 比津磁界
第2章

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第106話:赦しと救いの手のひら。

同居生活最終日の午後。

凛ちゃんがお隣の片付けに向かい、リビングには朝陽くんとおばあ様の二人だけになりました。

静まり返った部屋で、朝陽くんは静かに語り始めます。

両親の他界、孤独だった日々、そして左腕に刻まれた消えない傷跡。

凛が「お隣」へ戻り、パタンとドアが閉まる音がした。

リビングに残されたのは、俺と、凛のおばあ様の二人だけ。

さっきまでの賑やかな昼食の余韻は消え、部屋にはエアコンの微かな稼働音だけが響いている。


「……話して、くれるかしら」


おばあ様は急かすこともなく、ただ俺の言葉を待っていた。その眼差しは、すべてを包み込むような静謐さを湛えている。


俺はゆっくりと、左腕の袖を捲り上げた。

そこには、白い線となって残る生々しい傷跡がある。

凛にはすべてを話した。けれど、彼女の身内であり、人生の先達であるこの人を前にすると、喉の奥がひりつくような緊張が走る。


「……数年前、事故で両親を亡くしました。その後、叔母夫婦が俺を引き取ってくれたんです」


俺は、ポツリポツリと言葉を紡ぎ始めた。

叔母夫婦は、本当に優しかった。突然現れた親戚の子供を、実の息子のように気遣い、愛してくれた。

けれど、共働きの二人はいつも忙しく、疲れ切っていた。

幼かった俺は、そんな二人を見るのが怖かった。自分という存在が、彼らの負担をさらに増やしているのではないか。そう思うと、申し訳なくてたまらなかった。


「……だから俺は、彼らの『役に立つ道具』になろうとしたんです。家事を完璧にこなし、手のかからない子供でいれば、ここにいてもいい理由ができる。そう思っていました」


自分を消して、相手の望む形になる。それが、俺なりの恩返しであり、居場所を守るための術だった。

けれど、その歪な自己犠牲は、学校でのいじめや、左腕の傷を負うことになった「あの日」の出来事へと繋がっていく。

誰にも甘えず、誰にも頼らず生きること。それが、俺が自分に課した罰だった。


話している間、おばあ様は一度も口を挟まなかった。

ただ、俺の目を真っ直ぐに見つめ、俺の不器用な献身をそのまま受け止めるように聞いてくれていた。


すべてを話し終えた時、俺は力なく視線を落とした。

こんな歪な成り立ちの人間が、彼女の隣にいていいはずがない。

おばあ様に、呆れられるかもしれない。あるいは、悲しそうな顔をされるのかもしれない。

そう覚悟していた俺の視界に、シワの刻まれた、温かい手が伸びてきた。


「……っ」


おばあ様は、俺の傷跡が残る左手を、自身の両手でそっと包み込んだ。

その手は驚くほど優しく、そして微かに震えていた。


「そうだったのね。……優しい子ね、あなたは。でも、ごめんなさいね、朝陽さん。私はそれを聞いても、あなたがこのお部屋に住んでいてくれて良かった、と思ってしまうわ」


「……え?」


顔を上げると、おばあ様の瞳には涙が浮かんでいた。


「あなたのその過去がなければ。もし事故もなく、あなたがそのまま幸せに暮らしていたら……あなたは、凛と出会っていなかった。あなたのその傷があったから、今のあなたがいて、ここにいてくれたのね。……ごめんなさい。でも、ありがとう」


「…………っ」


心臓が、大きく跳ねた。

今まで、この過去は「負の遺産」でしかなかった。隠すべき汚れであり、俺が壊れている証拠だと思っていた。

それを、この人は「出会うために必要だった」と肯定したのだ。俺が、今日までこの形を保って生き延びてきたこと、そのものに感謝を告げたのだ。


「あなたが、ご両親の死に耐え、周りの愛に応えようと必死に生き抜き……こうして生還してくれたおかげで、凛は今まで見たことがないくらい幸せそうな顔をしているわ。あの子を救ってくれて、本当にありがとう」


おばあ様の言葉が、俺の心の奥底、凍りついていた場所にじんわりと染み込んでいく。


「きっとあなたはまだ、誰かに頼るのが怖くて、自分に自信がないのかもしれない。でもね、もうあなたの周りには、お友達も、凛も、私達も、そしてあなたを誰より愛している叔母夫婦だっている。もう、あなたは一人じゃないわ。何かあったら頼りなさい。あなたは人を助けられる人間よ。だから、周りもあなたを助けてくれる。そうして、少しずつ自分を許していけばいいのよ」


おばあ様は俺の手をギュッと握り締め、力強く頷いた。


「あなたなら大丈夫。これからも、凛と二人で助け合っていってね」


「…………あ、…………」


視界が、急激に歪んだ。

止めようとしても、熱いものが次から次へと溢れてくる。

サポーターとして、完璧であろうとしてきた。

誰にも迷惑をかけないよう、感情を殺してきた。

けれど、今、俺の中にいた「あの日の少年」が、ようやく誰かに見つけられ、「ここにいていいんだ」と抱きしめられたような気がした。


俺は声を押し殺して、泣いた。

子供のように、肩を震わせて。

おばあ様は何も言わず、ただ俺が泣き止むまで、ずっとその温かい手で俺の右手を握り続けてくれた。


「……す、すみません。……みっともないところを」


ようやく呼吸を整え、俺は手元のタオルで何度も涙を拭った。

「いいのよ。涙は、心が動いている証拠だもの」

おばあ様はいつもの穏やかな笑顔に戻り、俺にお茶を勧めてくれた。


涙を拭い去り、気持ちを落ち着かせた頃。

お隣との境にあるドアが開き、凛が顔を出した。


「ただいまー! 朝陽くん、片付け一段落したよ! ……って、あれ? 二人でお話し、終わっちゃった?」


凛は不思議そうに俺とおばあ様の顔を見比べた。

俺は少しだけ赤くなっているであろう目を悟られないよう、さりげなく視線を逸らす。


「ふふ、そうね。……何の話をしていたかは秘密よ。凛」

おばあさんはいたずらっぽく笑い、俺を見てウィンクした。

「えー! なにそれ、気になる!」

「いいのよ。さて、私はそろそろ帰るわね。……朝陽さん、ご飯、本当に美味しかったわ。ご馳走様でした」


おばあさんは立ち上がり、玄関まで見送る。


「また定期的にお話ししましょうね。連絡、待っているわよ」


おばあさんの後ろ姿がエレベーターに消えていくまで、俺たちは手を振った。


部屋に戻ると、リビングにはまだ玄米茶の香ばしい匂いが残っていた。


「ねえ、朝陽くん。おばあちゃん、変なこと言ってなかった? 大丈夫?」

凛が心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。


「……ああ。すごく、救われた気分だ」


俺は嘘偽りない本心を口にした。

「……そう? なら、よかった」

凛は安心したように笑い、ソファに座る。


明日からは、扉一枚隔てた関係に戻る。

けれど、もう俺の中に、あの頃のような孤独な「壁」は存在しなかった。

俺の不器用な生き方すら「必要だった」と肯定してくれた人がいる。

俺の存在に「ありがとう」と言ってくれた人がいる。


窓から入り込む風は、まだ夏の熱を孕んでいたが、俺の心には驚くほど清々しく、心地よい風が吹き抜けていた。


俺は大きく息を吐き、隣に座る凛を見た。

「……凛。明日からも、よろしくな」

「……うん! こちらこそ、よろしくね、朝陽くん!」


同居生活の終わりは、俺にとって「完璧な道具」を卒業し、一人の人間として生きるための、本当の始まりだった。

第106話、ありがとうございました。

朝陽くんが長年抱えてきた「負の記憶」が、おばあ様の深い慈愛によって、ついに「必要な過去」へと昇華されました。


「あなたの過去があったから、凛と出会えた。生きていてくれてありがとう」

この言葉は、自分を道具だと思い込んでいた朝陽くんにとって、何よりの救いになったはずです。

彼が流した涙は、過去の自分への弔いであり、明日を生きるための浄化でもありました。

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