第105話:十日目の朝、見透かされた傷跡。
ついに同居生活、最終日を迎えました。
リビングのソファで目を覚まし、冷たい水で顔を洗う朝陽くん。そんな彼の視線の先には、少し寂しそうに外を眺める凛ちゃんの姿がありました。
この十日間、当たり前だった「おはよう」の景色も、今日で一度幕を閉じます。
そこへやってくるのは、この同居のきっかけを作った凛ちゃんのおばあ様。
午前六時。
リビングの窓から差し込む朝日の眩しさに、俺はゆっくりと意識を浮上させた。
この十日間、俺の寝床だった布団から身を起こす。まずは自分の身体の状態を確認した。昨夜の薬がまだ効いているのか、幸いにも熱はぶり返していない。頭の重さも、これなら一日動ける程度には収まっている。
「……よし」
小さく呟いて立ち上がり、洗面所へ向かった。冷たい水で顔を洗い、眠気を完全に追い出す。鏡の中の自分は、少しだけやつれてはいたが、問題ない。
顔を拭いてリビングに戻ると、いつの間にか凛が起きてきていた。
パジャマ姿のままソファの端に座り、ぼんやりと窓の外を眺めている。
「……おはよう、凛。早かったな」
俺の声に、凛がびくりと肩を揺らしてこちらを向いた。
「……あ、朝陽くん。おはよう。なんだか、目が覚めちゃって」
「そうか。……もうすぐ、朝飯を作る」
「うん。……なんだか変な感じ。明日からは、自分の部屋で起きるんだよね」
凛の声には、隠しきれない寂しさが滲んでいた。俺も同じ気持ちだったが、それを口に出す代わりに、いつものようにキッチンへ立った。
最後のご飯は、和食にした。炊き立てのご飯、出汁をたっぷり含んだ厚焼き玉子、それに具沢山の味噌汁。
「いただきます……」
二人で並んで食べる、十回目。
箸を動かす音だけが静かに響く中、俺のスマートフォンが震えた。凛のおばあさんからのメッセージだった。
『十時に業者が行きます。私は九時半にそちらへ伺うわね』
「九時半におばあ様が来るそうだ」
「……そっか。本当にもう、終わりなんだね」
「隣には居るし、朝食も一緒に食べられる。何も変わらないよ」
凛は寂しそうに笑って、最後の一口を名残惜しそうに飲み込んだ。
朝食を終えた俺たちは、まずお隣――凛の部屋へ向かった。
窓をすべて開け放ち、熱気を逃がす。昨日、俺が一人で片付けておいたおかげで、業者が作業するスペースは十分に確保されていた。
「……なんか、自分の部屋なのに、しばらく離れてたから他人の部屋みたい」
凛がぽつりと呟く。確かに、この十日間、彼女の生活の中心は俺の部屋にあった。
九時半ちょうど。廊下から規則正しい足音が聞こえ、チャイムが鳴った。
玄関を開けると、そこには背筋を凛と伸ばした、上品な老婦人が立っていた。凛のおばあ様だ。
「お久しぶりね、凛。……そして、朝陽さん。十日間、本当にありがとうございました」
おばあ様は深々と頭を下げた。
「いえ、俺はサポーターとしての役目を果たしただけです」
「凛から毎日報告を貰っていたから、特に心配はしていなかったけれど。あなたの献身的な支えがあったからこそ、あの子も仕事をやり遂げられたのでしょうね」
おばあ様は、どこか見透かすような、けれど温かい眼差しで俺を見つめた。その視線の鋭さに、俺の背筋がわずかに伸びる。
業者さんが来るまでの間、一行は俺の部屋で待機することになった。
俺は二人をリビングに案内し、香ばしい玄米茶を淹れる。
「……ほう、良い香り。落ち着くわね」
おばあ様は茶碗を手に取り、ゆっくりと一口含んだ。
凛が少し照れながらも、「朝陽くんのご飯がね、本当に美味しいんだよ」と自慢げに話すのを、おばあ様は目を細めて聞いていた。
十時になり、業者さんが到着した。
おばあ様と凛は立ち会いのために「お隣」へ移動し、俺は一人、自室に残った。
やるべきことは、今日という日を締めくくる最後のおもてなし――昼食の準備だ。
おばあ様の分も含めて三人分。
メニューは、銀だらの西京焼きと、季節の野菜を使った小鉢。それから、とろろ汁。
おばあ様のような年代の方にも喜んでもらえるよう、塩分は控えめに、けれど出汁の旨みを最大限に引き出すように調理を進める。
(……料理はいいな、集中できる。)
野菜を刻む感触、出汁の香り。この部屋に凛がいるのが当たり前だった日常が、もうすぐ扉一つ分の距離に戻る。
薬で抑えているはずの身体が、ふとした瞬間にふらつくが、俺はそれを気合でねじ伏せた。
お昼過ぎ。廊下から「ありがとうございました」という業者さんの声と、ドアの閉まる音が聞こえた。
ほどなくして、凛とおばあ様が戻ってきた。
「お疲れ様です。おばあ様も、もしよろしければお昼、食べていきませんか?」
「いいの? なら、お言葉に甘えてご馳走になろうかしら」
こうして、三人での昼食が始まった。
「……まあ。本当に、料亭で出されてもおかしくない味だわ」
おばあ様は一口食べるなり、感嘆の声を上げた。
「凛が自慢したくなる気持ちもわかるわ。朝陽さん、お料理はご両親に習ったのかしら?」
その問いに、凛が「あっ」と顔を強張らせる。俺の事情を知っている彼女が、慌ててフォローしようと口を開く。
「おばあちゃん、それは――」
「……いえ」
俺は凛を制するように手を挙げ、おばあ様の目を真っ直ぐに見つめて答えた。
「両親は、数年前に他界しています。その後は叔母夫婦に引き取られたのですが……料理に関しては、ほぼ独学です。生きるために必要だったので、自然と身につきました」
リビングに、一瞬の静寂が訪れた。
「あら……。聞いてしまって、ごめんなさいね」
おばあ様は申し訳なさそうに眉を下げた。
「いえ、気にしないでください。もう随分前のことですし、今の俺を形作っている大事な過程ですから」
「……そう。でも、独学でこれほどの腕を磨くなんて、あなたは凄く頑張ったのね。自分を律して、誰かのために尽くせる。立派なことだわ」
おばあ様の言葉は、どこまでも慈愛に満ちていた。
けれどその直後、俺は心臓が跳ねるのを感じた。
おばあ様の鋭い視線が、一瞬だけ、俺の長袖の下――隠し持った左腕の傷跡に向けられたのを、俺は見逃さなかった。
本能的な警戒感が、薬で麻痺していた感覚を呼び覚ます。
食べ終わり、後片付けをしようとした俺に、おばあ様が穏やかに声をかけた。
「凛、あなたは先にお隣へ行って、荷物の整理を済ませておきなさい。私はもう少し、朝陽さんとお話ししたいことがあるから」
「えっ、でも……」
凛が不安そうに俺とおばあ様を見比べる。
「大丈夫だ。凛が整理を終える頃には、俺も向かうよ」
俺がそう言うと、凛は渋々といった様子で「……わかった。後でね、朝陽くん」と言い、隣の部屋へ戻っていった。
リビングに残されたのは、俺とおばあ様の二人だけ。
俺が新しくお茶を淹れ直そうとすると、おばあ様が静かに切り出した。
「それで……左腕には、傷があるのね?」
その言葉に、持っていた茶筒を落としそうになった。
「…………なぜ、わかったのですか?」
声がわずかに震える。
「職業柄ね、仕草だったり視線、歩き方を見て、人を判断しなければならない立場だから。……あなたは先ほどから、左腕を庇うような動きをしている。そして、時折自分の腕に、酷く悲しそうな目を向けていた」
おばあ様は茶碗を置き、俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「なかなか人に懐かない孫娘が、あんなにあなたに懐いている。私はね、あの子の見る目を信じているの。だからこそ、あなたのことも信頼しているわ」
「……」
「きっとその傷も、その悲しそうな顔も……あなたには、私たちが想像もできないような、壮絶な過去があるのでしょう?」
凛には、すべてを話した。
けれど、彼女の「家族」という、俺のような人間を裁き、あるいは拒絶する力を持った立場の人間にこれを問われるのは、初めてだった。
「もしよければ、話してくれないかしら? 凛の祖母としてではなく、一人の人間として、あなたのことを知りたいのよ」
おばあ様の瞳は、俺を糾弾するものではなかった。
ただ、すべてを受け入れる準備ができているような、深い、深い優しさに満ちていた。
俺はゆっくりと、左腕の袖に手をかけた。
今まで、凛以外にさらけ出すことのなかった、俺という人間の「核」。
(この人になら……。話してもいいのかもしれない)
夏の昼下がり、エアコンの効いた静かな部屋で。
俺は、自分の過去という名の「傷跡」について、語り始める覚悟を決めた。
第105話、ありがとうございました!
ついに同居生活の最終日。
エアコンの修理が終わり、「同居」という形式が終わりを告げる日。
その締めくくりに現れたおばあ様は、単なる保護者ではなく、人の本質を射抜く鋭い目を持った方でした。
凛ちゃんにはすでに話した過去ですが、彼女が最も信頼する「大人」に打ち明けるのは、ある種、家族として認められるかどうかの最終試験のような緊張感があります。
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