第104話:ご褒美と寂しがり。
ついに大きな仕事の納品が完了しました。
一つの山を越えた達成感と、心地よい疲労感。けれど、今日という日はまだ終わりではありません。
「仕事をやり遂げたら、ご褒美をちょうだい」
昨夜のあの約束が、朝陽の胸をずっとざわつかせています。
「……終わった。」
納品画面を見つめたまま、凛が力なく椅子に背中を預けた。
その顔には、一仕事を終えた安堵感と、限界まで集中しきった後の虚脱感が混ざり合っていた。
「ああ、お疲れ様。よく頑張ったな。ご飯にしよう」
お昼ご飯は、彼女が好きな具材をたっぷり入れたオムライスだ。
薬のおかげで、俺の体調もすこぶる良い。彼女が美味しそうに食べる姿を見ていると、自分のことのように胸の奥が温かくなる。
「食べ終わったら、少し眠たらどうだ?」
「……ん、ありがと。あ、そうだ、お隣の片付け……。明日の朝、一緒にやろうね。業者の人が来るし、さすがにあのままだと恥ずかしいから……」
凛が申し訳なさそうに言う。彼女なりに、自分の部屋を放置しているのが気にかかっていたらしい。
「いや、いいよ。相当疲れてるだろうし。空気の入れ替えと、クーラー周りの片付けくらいなら俺一人でやっておく。」
「えっ、でも、悪いよ。暑いし……」
「気にするな。……その代わり、起きたら元気な顔を見せてくれ」
「……。わかった。じゃあ、お願いしちゃおうかな。……ありがと、朝陽くん」
凛は素直に頷くと、食後、フラフラとした足取りでベッドへと向かっていった。
凛が深い眠りについたのを確認してから、俺は合鍵を持って「お隣」へ向かった。
凛の部屋のドアを開けた瞬間、ムッとした熱気が顔を叩く。
やはり、クーラーのない部屋は相当な温度だ。
俺はまず全ての窓を全開にし、淀んだ空気を入れ替えた。
部屋自体はそれほど荒れていない。ただ、明日の業者が脚立を立てたり作業をしたりすることを考えると、室内機の周辺にあるものを移動させておく必要がある。
(……明日、ここが直れば、凛は自分の部屋に戻るんだな)
俺は壁に立てかけられた棚を少し動かし、作業スペースを確保した。
部屋の隅に少し溜まっていた埃を拭き取り、彼女が明日から快適に暮らせるように整える。
灼熱の中での作業は、薬で抑えているとはいえ体に堪える。けれど、俺の部屋で安心して眠っている彼女のことを思うと、不思議と手は止まらなかった。
部屋を整え終え、最後に一度だけ振り返る。
窓から入る風が、少しだけ夕暮れの気配を運んできた。
夕食時、凛がようやくリビングに顔を出した。
三時間ほど眠ったおかげか、その表情には瑞々しさが戻っている。
「おはよう。気分はどうだ?」
「いい感じ! 体が軽いもん。……あ、部屋、掃除してくれたんだよね。あんなに暑かったのに、ありがとう」
「明日、業者が来るから、作業スペースを空けただけだ。ほら、今日はお祝いだぞ」
テーブルに並べたのは、ふっくらと焼き上げた特製のハンバーグ。
ナイフを入れると肉汁が溢れ出し、デミグラスソースの香りが食欲をそそる。
「わあ、ハンバーグ! 嬉しい……! いただきます!」
凛は一口食べるごとに「んん〜!」と幸せそうに声を漏らした。
「ねえ、朝陽くん。……忘れてないよね? ご褒美のこと」
ハンバーグを半分ほど食べたところで、凛が上目遣いで俺を見た。
「……忘れるわけがない。何がいいんだ? どこか行きたい店でもあるのか?」
「うーん、ハズレ。……まだ秘密。お風呂上がって、ストレッチが終わるまでお預け!」
彼女はいたずらっぽく指を立てて笑った。
お風呂を済ませ、いつものようにリビングで夜のルーティンが始まった。
静かな空気の中で彼女の体を解していく。
「……よし、ストレッチ終わり。凛、お疲れ様」
俺が立ち上がろうとした、その時だった。
凛が俺のシャツの裾を、クイと引っ張った。
「……朝陽くん。約束、覚えてる?」
「……ああ」
俺は居住まいを正し、彼女の言葉を待った。
「……それじゃあ、ご褒美。発表します」
凛は少しだけ視線を彷徨わせた後、意を決したように俺の瞳を真っ直ぐに見つめた。
その頬は、お風呂上がりの熱のせいだけではない、赤みを帯びている。
「朝陽くん。……私のこと、撫でてほしいの。頑張ったねって、頭、撫でて?」
「…………え?」
俺は思わず、間の抜けた声を出してしまった。
「……そんなことでいいのか?ご褒美にならないだろ…。」
「『そんなこと』じゃないよ。……私にとっては、すごく、特別なことなの」
凛は少し照れくさそうに、でも真剣な顔で俺を見上げている。
俺は戸惑いながらも、ゆっくりと手を伸ばした。
サラサラとした髪の感触。
そのまま、赤ん坊をあやすように、ゆっくりと、何度も彼女の頭を撫でた。
「……よく、頑張ったな。凛」
「……えへへ」
凛は目を細めて、俺の手のひらに身を委ねるように頭を寄せてきた。
その姿があまりに愛おしくて、俺の手の動きが自然と優しくなっていく。
すると。
「…………朝陽君」
凛が小さく声を漏らしたかと思うと、突然、俺のシャツの腹のあたりをぎゅっと掴んできた。
そのまま、彼女は俺の胸に、ポフッと顔を埋めるようにして寄りかかってきたのだ。
「……っ、凛!?」
「……あと、少しだけ。このままいさせて」
腕の中に収まった、彼女の小さな体。
伝わってくるのは、お風呂上がりの石鹸の香りと、彼女の少し速い鼓動。
正面から抱きしめ合っているわけではない。彼女が俺に凭れかかり、俺がそれを受け止めている、という歪な形。
「……明日で、終わっちゃうんだね」
胸元から聞こえる、震えるような小さな声。
俺は一瞬、言葉に詰まった。けれど、彼女の不安を溶かすように、努めて冷静に、けれど優しく口を開いた。
「……別に、永遠の別れじゃないだろ。同じ家で寝ないだけで、生活自体は大して変わらない。飯だって作るし、サポートだって続ける。……扉一つ分、距離が戻るだけだ」
「…………」
俺の言葉に、凛は俺のシャツを掴む手にさらに力を込めた。
「……そうだね。朝陽くんがそう言ってくれるなら、寂しくない……かな」
夏の夜の静寂。
エアコンの微かな動作音だけが響くリビングで、俺たちは、重なった体温を感じ続けていた。
第104話、ありがとうございました!
凛ちゃんのご褒美は「なでなで」。
けれど、同居解消という寂しさが、彼女を思わぬ行動へと突き動かしました。
朝陽くんの胸に顔を埋め、シャツをぎゅっと掴む凛ちゃん。
それに対して「寝る場所が変わるだけだ」と、いつも通り――けれど誰よりも優しく答える朝陽くん。
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