第101話:伏線と、添えられた両手。
10日間の同居生活も、残すところあと4日です。
昨夜の花火大会、そして凛ちゃんから提示された「ご褒美」の約束。
昨夜の余韻を抱えたまま、朝を迎えた朝陽くんと、そんな彼の異変に気づく凛ちゃん。
あまり眠れなかった。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、容赦なく僕の網膜を刺す。
ソファから起き上がると、体が鉛のように重い。昨夜、ベランダで凛が残していった言葉や、マッサージの時に触れた肌の柔らかさ。それらが脳内でリピート再生され、俺の睡眠中枢を完全に麻痺させていた。
我ながら情けない。
「……動け、自分」
頬を叩いて気合を入れ、キッチンに向かう。
今日から凛は、9日の納期に向けてラストスパートに入る。ならば、朝食は彼女が戦い抜くための「燃料」としての役割を完璧に果たさなければならない。
薄切りの食パンを取り出し、ケチャップをベースにした特製ソースを塗る。その上に玉ねぎ、ピーマン、サラミ。そして、これでもかという量のピザ用チーズを盛り付けた。
「これなら、カロリーもしっかり取れるはず」
トースターの中でチーズがぐつぐつと踊り、食欲をそそる香ばしい匂いがリビングに広がり始める。
香りに誘われるように、作業部屋のドアがゆっくりと開いた。
「……朝陽くん、おはよう。すっごいいい匂い……」
現れた凛は、まだ半分夢の中にいるような足取りだった。
けれど、キッチンに立つ俺の姿を捉えた瞬間、彼女の動きが止まる。
「……え、朝陽くん?」
「なんだ。すぐ焼けるから、顔を洗って――」
俺の言葉が終わる前に、凛がススッ、と距離を詰めてきた。
彼女の少し潤んだ瞳が、俺の顔をじっと見つめる。
「……すごいクマ。ねえ、寝てないの? もしかして、体調悪いの……?」
「いや、ただの寝不足だ。気にするな」
誤魔化そうとして視線を逸らしたが、彼女は引かなかった。
それどころか、あろうことか俺の頬に、その小さくて柔らかな両手をそっと添えてきたのだ。
「……っ」
「……ちょっと熱いかも。ねえ、本当に大丈夫? 無理してない?」
上目遣いで、本気で俺を案じる瞳。
そこには「サポーターがいないと仕事が困る」なんて打算は微塵もなくて、ただ純粋に、目の前の俺という人間が傷ついていることを悲しむような、真っ直ぐな慈しみがあった。
頬から伝わってくる彼女の体温が、寝不足の脳に熱く、切なく響く。
「……大丈夫だ。ただ、少し考え事をしていただけで、熱はない」
「……本当? もし少しでもしんどくなったら、すぐ言ってね。朝陽くんが倒れたりしたら……私、本当に悲しいから。無理しすぎないでね」
凛はそう言うと、名残惜しそうに手を離した。
触れられていた場所に、確かな熱が残る。
「……わかった。家事とか身の回りのことは全部僕がやるから、君は書くことだけに集中して。……でも、二人で一緒に無理をしないのが、今日の目標だな」
「……うん、頼りにしてるね」
食後、凛は戦闘開始を告げるように、足早に作業部屋へと戻っていった。
そこからの彼女の集中力は、凄まじいものだった。
部屋からは絶え間なく、キーボードを叩く音や、ペンがタブレットを滑る音が響いてくる。
俺はそのリズムを壊さないよう、忍び足で家事を済ませ、彼女に合わせたサポートを徹底した。
午後三時。
作業音がふっと途切れ、重い溜息が聞こえてきた。
集中力が一度、底を突いた合図だ。
俺はあらかじめ用意しておいた、スコーンを皿に盛り、彼女の部屋のドアを叩いた。
「……凛。おやつだ」
「……ぁ、入っていいよ……」
ドアを開けると、そこにはモニターの光に照らされた、ボロボロの凛がいた。
けれど、俺が持ってきたスコーンのバターの香りに、彼女の鼻がぴくっと動く。
「……スコーン?」
「紅茶も淹れた。糖分を補給して、一度リセットしよ」
外はサクサク、中はしっとりと焼き上げたスコーンに、ブルーベリージャムとクロテッドクリームを添えて。
凛はそれを一口食べると、ふにゃりと頬を緩めた。
「……生き返る。……朝陽くんの選ぶおやつって、どうしてこんなに『今欲しいもの』ぴったりなんだろう」
「サポーターだからな。……少しは休めたか?」
「うん。……あともう一踏ん張り、いけそう」
彼女の表情に、少しだけ余裕が戻ったのを見て、俺はトレイを持って部屋を下がった。
去り際、凛が「……朝陽くんも、ちゃんと休んでね? 寝不足なんだから」と小さく声をかけてきた。
その気遣いが、俺にとっては何よりの栄養剤だった。
夕食を終え、凛が少しだけ申し訳なさそうに僕を見た。
「朝陽くん。あのね、あと一時間だけ作業させて? 今日中に一段落させておきたいところがあるの」
普段の俺なら、寝不足の自分と彼女の体調を考えて「もう寝なさい」と言っていたかもしれない。けれど、今の彼女の瞳には、強い意志が宿っていた。
「……わかった。その代わり、一時間だけだぞ。終わったらすぐにお風呂に入れるように準備しておくから」
「……! うん、ありがとう、朝陽くん!」
凛はパッと顔を輝かせると、吸い込まれるように作業部屋へと戻っていった。
俺は彼女の背中を見送りながら、皿洗いをする。
約束の一時間が経つ頃、作業部屋のドアが開く音がした。
「……終わったー!」という小さな歓声。
「凛、お疲れさま。お湯、ちょうど沸いたぞ」
「……ふふ、さすが朝陽くん。じゃあ、お言葉に甘えて入ってくるね!」
三十分後。
湯上がりの香りを纏った凛が、リビングに戻ってくる。
交代で、自分も入浴。
その後、俺はいつものように彼女の背中や肩に手を置いた。
「……っ、ふぅ……」
「……凝ってるな。やっぱり無理をしていたじゃないか」
「……だって、朝陽くんがそばにいてくれると思うと、ついつい夢中になっちゃうんだもん」
背中越しに伝わる、彼女の柔らかな体温と呼吸。
ゆっくりと筋肉を解しながら、俺は自分の手のひらにも熱が溜まっていくのを感じていた。
マッサージが終わると、次はストレッチだ。
彼女の足をゆっくりと伸ばし、固まった関節を解いていく。
「……いたたた、そこ、響く……っ」
「ここが固まると、腰に来るからな。……よし、これで終わりだ」
「……ん。……ありがと、朝陽くん。なんだか、体がふわふわする……」
リビングの照明を落とし、小さな間接照明だけにする。
凛はソファに座ったまま、うつらうつらと船を漕ぎ始めていた。
「……ねえ、朝陽くん」
「なんだ」
「……あと、三日だね。……エアコンが直るの」
「……ああ。そうだな」
「……もっとずっと、このままがいいな……」
消え入りそうな声で、凛が呟いた。
俺はその言葉にどう答えていいか分からず、ただ彼女の隣に座って、その寝顔を見守ることしかできなかった。
頬に添えられた、彼女の手のひらの柔らかさを思い出す。
あの時、彼女は仕事の効率を心配したのではない。一人の人間としての俺を、俺の体調を、真っ直ぐに案じてくれた。
それは、俺がずっと避けてきた「踏み込まれること」への恐怖を、呆気なく溶かしてしまうほどの温かさだった。
「……おやすみ、凛」
クマを心配して頬に手を添える凛ちゃん。その言葉の端々から漏れるのは、利害関係を超えた「あなたに元気でいてほしい」という純粋な願いです。
それを受けた朝陽くんも、彼女のプロとしての意志を尊重しつつ、完璧なアフターケアで応える……そんな、二人三脚のような関係性が深まった一日でした。
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