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うしろのしょうめんだあれ  作者: るかひ
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第四幕『つるとかめ』

    第四幕『つるとかめ』



 シェルジュは現在、寝たきりだ。

 当分、ベッドの上で過ごすことになるだろう。下手をすれば一生。そのうち、王都内の医院に移されるという。

 君のせいじゃない、とシェルジュは無理をして笑うから、ロロもできるだけ笑顔を浮かべるようにしている。うまくいっているかは定かじゃない。シェルジュの困った顔を見ると、多分、うまくいっていないんだろう。

「仕事は大丈夫?」シェルジュが気遣わしげに言った。ロロはこのところ、給仕の合間を全てシェルジュの看病に費やしている。もちろん王様の遊び相手も忘れていない。大丈夫です、とロロは頷く。

 シェルジュはロロの世話役だった。今は代わりに給仕長に面倒を見てもらっている。失敗だらけのロロは叱られてばかりだ。シェルジュはロロがどれだけおっちょこちょいでも怒ったりしなかった。今になってその優しさに胸が締めつけられる。

 何も心配することはない。シェルジュにはゆっくり休んでほしい。

 そしてまたいつか、一緒に働けたら。

 ロロの希望にもシェルジュは弱々しく微笑むばかりだ。

「僕は・・・・・・僕は、君に、謝らないといけない」

「謝るのは、ロロの方です・・・・・・感謝してるのも、ロロです」

 シェルジュは悲痛に片頬を歪め、長い息を吐いた。「ちゃんと、伝えなきゃって、思って、でも・・・・・・やっぱり、駄目だ。僕はどうやら君に嫌われたくないらしい。今更。本当に、今更だ」

 ロロはシェルジュの無事な左手を握った。「ロロがシェルジュを嫌いになるはずないです」

「そうかな」傷が痛むのだろうか。シェルジュは今にも泣き出しそうに言う。「そうかな・・・・・・僕は、君にたくさん、嘘、を」

 ロロはふっと息を抜いた。「シェルジュも嘘ついてるんですか」

 も。

 シェルジュは首を傾げる。

「わたし、王都に上ってきた時、身売りに騙されて攫われそうになりました」

 ぼさぼさの黒い髪を思い出すと口の中に苦みが広がる。決して悪い人じゃなかったように思う。ロロは人の気配に敏感だけれど、それほど危険は感じなかった。その証拠に、ロロは別段、彼に対して憤りを覚えていない。騙されたと気づいた時は、それなりの衝撃はあったけれど。

「オルハさんにも、この前、嘘をついてると言われたし」

 意外そうにシェルジュが瞬く。

「王様は」ロロは息を吸って、止めた。「王様は、いつも嘘ばっかり言うし」

 ラナシさんも何か隠してる。

 色の違う見えない左目の奥に。

 ロロはきっと、そういう性分なのだ。

「騙されやすい性格なんだって、最近やっと自覚してきたところです」

 肩を落とすロロをシェルジュが笑った。「気づくの遅いね」

「そうなんです」

「そうだね」

 二人は声を忍ばせて笑いあった。声をひそめる必要はないのに、何だか秘密を共有しているみたいでおかしかった。小さな頃は、よく義兄姉とこうして大人の悪口を囁いたものだ。

「ねえ、ロロ」シェルジュがふいに真剣な表情になる。「君は、ここを離れるつもりはないの」

 一瞬、何を言われたのかわからなかった。

 城を離れる。

 そんな選択肢、存在すらも知らなかった。

「教会の皆のために働かないと。わたしはそのために来てるんです」

 シェルジュは首を振った。「だけど、きっと君を犠牲に払ってまで裕福な暮らしをしようとは思ってないよ」

「犠牲」

 ロロが何かの犠牲になるというのか。

 猛り狂った哄笑が聞こえた気がした。

 頭を振ってロロは言った。「ロロは負けません。勝つのは無理かもしれないけど」

 シェルジュは不可解な顔をしたけれど、そう、と頷いてくれた。

 手の中から抜け出た左手が、ロロの手の甲に重なる。

「一つだけ。・・・・・・陛下は、止まらないよ、ロロ」

 どこかで。

 どこかで、聞いたような話だ。

「誰にも止められない。だけどね、もし、もし君が、彼を愛せるというのなら」

 彼を救ってあげて。

 そんな大それたこと、ロロにできるだろうか。

 できない。

 できやしない。

「燃え盛る火・・・・・・今でも思いだせる。あの無力感。手を引かれるままに逃げだすしかなかった。母と弟を置いて・・・・・・一人、生き残った。僕を導いた占者も、今はどこで何をしているのか。・・・・・・僕は陛下に全てを奪われた。けどきっと、陛下は・・・・・・もっと多くのものを、与えられる前から、失ってしまったんだと思う」

「誰ですか」王様をあんな風に苦しめるのは。「誰なんですか」

 シェルジュは窓の外に目をやった。

 こんな時でさえ、空は青く澄み、鳥は囀り、人々は明るく笑っている。

「この国そのものだよ」



「お茶菓子、受け取りにきました」

 厨房に声をかけると、あーい、と間伸びした返事。ロロは木のお盆を壊れ物のように抱え、エプロン姿の中年男の隣に並ぶ。

「今日のケーキは何ですか」

 左から身を乗り出して訊ねると、ラナシさんは「うわっ」と情けない悲鳴を上げた。大げさに身を引く動作にロロは瞬きを繰り返す。「どうしたんですか」

「あ、いや、そっちから来ると思わなかったから」

 ロロはラナシさんの両目を注意深く観察する。右は灰色がかった黒、左は夜明け前の空を映したような藍色だ。

 やっぱり。

 ロロは確信した。

「左目、見えてないんですね」

 ラナシさんはきょどってあちこちに視線を巡らした。そうして観念したように両手を上げる。「天然そうに見えて意外と鋭いんだからなぁ、まいっちゃうよな」

 ロロは目を輝かせた。「初めて鋭いなんて言われました」

「根本的に鈍いからな」

「あう」

 俯いたロロの肩をラナシさんは遠慮なく叩く。「そこがいーんだろー。女の子はちょっととろいくらいの方が隙があって可愛いだろ」

「わたしはかわいくないですよ・・・・・・」

「可愛いよ」さらりと出た言葉。ラナシさんはしまったと唇を噛み、「あ、いや、今のはノリね」

「ですよね・・・・・・」

 再び沈んだロロに、料理長としてあるまじきことだが、ラナシさんはどうしたものかとばりばり頭髪をかいて、切り分けたケーキを皿に載せた。疲れた笑顔で、糞ガキが待ちくたびれてるだろうから早く行ってやれ、

と促す。

「不便なことがあったら、何でもおっしゃってくださいね」

 見えない左目を示唆して言った。

 ラナシさんは虚を突かれた顔をして、はは、と肩を揺らした。「ありがとよ」

 ロロは満面の笑みを浮かべて踵を返す。

「――ロロちゃん」

 厨房を出る間際、ラナシさんが何か呟いた気がしたけれど、ロロは聞きとれなかった。

「この左目は、俺じゃないんだよ」



 並々と注がれた熱い紅茶が跳ねる。

 そろりそろりと足を動かし、ロロは扉の前に立った。薄い木の板も今や断崖絶壁のようにロロを威圧している。慎重に盆を片手で持って三回ノックした。第一関門はこれでクリアだ。次は盆を落とさないようにノブを捻るという高度な技術が必要になる。ロロは息を吸って吐いた。今こそぶつかる時だ。できる。自分にはやれる――。

 ぐっと握ったノブが勝手に回った。

 つんのめる。

「うわひゃぁっ」

 危うく傾きかけた盆を支える腕。

「・・・・・・遅い」

 仏頂面の王様がロロを睨んでいる。顎を上げた居丈高な態度はむしろ蔑んでいた。王様なのだからロロは馬鹿にされて当然なのだけれど、どうしたって悲しいものは悲しい。

「すみません・・・・・・」

「何に引っかかってた」

「う」正直に言ったら絶対に機嫌が悪くなる。ただでさえ待ちくたびれて険悪な雰囲気だと言うのに。

「ラナシの阿呆にちょっかい出されたんだろ」

 半眼で凄む王様にロロは慌てて首を振った。「ち、違います。世間話です。ただの。ちょっと弾んじゃって」

「お前は何をもって世間話って言うわけ」

 人の素状に突っこんだ話をただの社交辞令だって言うのか。

 ロロは頬を引きつらせた。

 聞いてたのか。

「来てたなら、声くらい・・・・・・」

 王様はふんと鼻を鳴らして盆をむしり取ると、タルトに乗ったラズベリーを摘まんで口に放りながらさっさと机に戻った。文句は言いつつ、ラナシさんの作る料理は食べるのだから現金だ。

 しかし今日の王様はいつもと違った。それきり菓子に手をつけず、作業に没頭し始めてしまう。

 重要な案件でもあるのだろうか。かり、かりかりかり、かり、と安定しない筆音。仕事の邪魔をしてはいけないと思い、そそくさと立ち去ろうとしたロロは、違和感に足を止めた。

 王様は気だるそうに背を丸め、頬杖をついて考えこんでいる。

 淀みなく仕事を済ませてしまう王様が躓くなんて、それだけでも珍しいことなのだ。しかしそれ以上の強い物足りなさ。

 いつも通りの風景に何かが足りない。

 顔の密度が薄い気がする。

 ぴこんと豆電球に光が灯った。

「王様、今日は仕事中なのに眼鏡かけてないんですね」

 場の空気が凍りついた。

 背筋を駆け抜ける悪寒。

 王様は驚愕の表情でロロを凝視している。呼吸も忘れているようだ。何が彼を驚かせたのか。ロロはよくわからないまま、異様な気迫に一歩、後ずさった。

 一瞬。ほんの一瞬のことだ。王様の目に奇妙な冷酷さが宿った。それを掻き消すような破裂音。

 王様が机に手の平を叩きつけた。

 強い圧力を受けた皮膚がぱっくりと裂け、夥しい量の血に書類が濡れそぼっていく。

「お、おうさ――」

「出て行け」

 今夜は来るな。

 冷えた声で王様は言った。

「さっさと行け!」

 蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。出て行け、と。ならば扉に向かわないと。それなのに、どうしてかロロは執務机に向かって足を踏みだした。

 王様が怯えるように身を竦ませた。「聞こえなかったのか」

「あ・・・・・・き、傷の、手当て、を、しないと」

「聞こえなかったのかと訊いたんだ。俺は、お前に、出て行けと、言ってる」

「で、でも」

 血が。

 こんなに、たくさん。

 まるでその紅い輝きに魅せられたようにロロは王様の手に指を伸ばした。彼は手を引っこめようとしたけれど、その際、僅かに爪の先が触れた。

 王様が目を見開いた。反りかえる長い睫毛。「許可なく」

 視界がぶれた。

「俺に触れるな・・・・・・!」

 頭がぐわんぐわん揺れて立っていられなくなる。光が弾けて収まった頃には、眩暈は熱に変わり、右頬をじんじんと痺れさせていた。おまけにロロは床にへたり込んでいる。

 腕を振り抜いた姿勢で王様が呆然とロロを見ていた。

 殴られたのだ。

 王様に。

 唾液に混じる鉄錆の味が妙に現実から剥離している。

「出てけよ」それは最早、命令でも何でもない懇願だった。「頼むから出てってくれよ・・・・・・っ」

 王様は頭を抱える。思い通りにいかなくて癇癪を起こす子供みたいだ。実際、そうなのだと思う。王様は頭がよくて、大人で、立派な国王だけど、どこか凍結した部分があって、泣き叫ぶ重い塊を抱えてる。

 ロロは立ち上がろうとした。腰が抜けて立てなかった。王様は左手で目を覆って俯いている。

「・・・・・・ばかなんです、ロロは」

 王様は泣きそうな声で繰り返した。「馬鹿・・・・・・?」

 ロロは頷いた。「ロロはばかなんですよ、王様」

 だから気にしなくていいと。きっとすぐに忘れてしまうからと。

 そう言いたかったのに。

 涙が溢れた。

 それ以上は言葉にならなかった。

 感情が雫となって零れると、不思議なほどすっと腰の強張りがとけた。

 泣きじゃくりながら部屋を出ようとした時だ。王様が濡れた声で言った。

「お前は」

 突然、差した陽光に、目が眩んだような、間。

「お前は、俺を愛せるか」

 愛、というものがどんなものなのか。まだ知らないロロには答えることができない。

 だけどこれだけは確かだ。

「王様は、そんなの望んでないですよね」

 過ぎた愛情ほど重いものはない。

 人は愛で人を押し潰すことができる。

 はっと息をのみ、王様は無意識といった風に包帯の巻かれた右手の甲を左手で包むと、ともすれば消えてしまいそうな儚げな表情を浮かべた。

 そうして、言った。

「賭けをしよう」

 お前は。

「お前は絶対――俺を好きになる」

「じゃあ、わたしも賭けます」

 ロロは涙の粒を散らし、毅然と言い放った。

「あなたは絶対、わたしを好きにならない」


 彼は立ち尽くした。

 望んでいない。俺が。愛されることを。そうか。

 そうか。

 そうだったのか。

 だから彼はいつも、あんなにも腹立たしかったのだ。

 そうか。

 俺は、望んでいないのか。

 望んで。

 本当に。

 望んで、いないと――言えるのか。

 欲しい、と。思った。欲しい。欲しくてたまらない。何もいらないと思っていた。何も与えないでほしいと。それなのに。欲しい。からからに渇いた喉がごくりと鳴る。

 欲しい。

 扇情的に潤む浅緋の瞳が。

 暖かい小さな体が。柔い感触が。

 どこまでも直向きな心が。

 愛しいと、愛しくてたまらないと、欲情する自分に彼は驚いている。

 あなたは絶対、わたしを好きにならない。

「・・・・・・本気、かよ」

 零パーセントに賭けるなんて。

 何を考えてるんだ、あいつ。



   * * * * *



 近頃は城内が慌ただしい。

 特に軍部の偉い人や騎士で位の高い人をよく見かける。重大な詮議が行われているらしかった。ロロは預かり知らぬところだし、王様も多忙でここ一週間はロロの周りだけ平和である。

 ほっとしていた。

 どんな顔をしたらいいのかも、何を話せばいいのかもわからなかったから。

 今朝から胸がざわついている。大きな脅威が近づいてくるようだ。じわじわと獲物を追いつめるように密度を濃くする不安感。ロロは空を見上げた。雲一つない蒼穹は果てが見えないほど高い。

 嵐が、くる。

「・・・・・・洗濯物、しまっておこうかな」

 濡れたらまずいものだけこっそり中に入れておこう。

 目立つことはしない。

 ここのところ思うのだ。ラバナとチエリとクォラは、もしかしたら、ロロのせいで死んだんじゃないかって。特別な理由があるわけじゃない。ただ漠然と感じるのだ。複雑に絡むたくさんの悪意を。

 彼女らのような末路を送る人はもう増やしたくない。

 誰かがいなくなるなんてまっぴらだ。

 結局、ラバナはロロの何が気に入らなかったんだろう。

 王様なら、知っているんだろうか。

 溜息をついた拍子だった。一瞬の隙をついて突風が叩きつけ、「わぷ」真っ白いシーツが顔に絡んだ。抱えていた洗濯物が何枚か風に攫われた。洗濯ばさみも地面に落として土で汚す始末。

 泣いて蹲ることはできない。

 ロロを助けてくれる柔らかな巻き毛はもういないのだから。

 ロロは目元を拭い、ぐずりながらも動いた。取りあえず手元の無事な衣類を避難させるため廊下に戻る。

 取り込んだ洗濯物を畳み終わって、食器棚の整理をしていたら給仕長に呼ばれた。

「陛下にお茶を運んでくれるかい」

 正直に言えば断りたかった。今は会いたくない。向こうもきっと、ロロの顔など見たくないだろう。珍しくぐずるロロに給仕長は優しく声をかけてくれた。陛下と何かあったのかい。あたしが叱ってやろうか。それは困ると思って、ロロは無理矢理に笑顔を作ると、ちょっとお腹の調子が悪いだけですと言い繕って執務室に向かった。

 さっと運んで、さっと戻ろう。

 ロロが部屋に顔を出すと、王様は机に向かっていた。オルハさんは窓際で厚く垂れ込めた雲を眺めている。どしゃぶりの雨が降りだしていた。今頃、手すきの者総動員で、干した衣類の回収に励んでいることだろう。

 幸い、と言っていいのか。王様はロロが来ても顔を上げなかった。集中しすぎて気づいていないのかもしれない。一抹の寂しさが胸に宿った。やはりそうだ。王様にとってロロは退屈しのぎの遊び相手であって、それ以上も以下もないのである。玩具と何も変わらない。

 紅茶の盆を机に置いてそそくさと退出しようとした時だった。

 突然、王様の手が伸びてきて、ロロの肘を掴んだ。

「お前さ、戦争、嫌いか」

 綺麗な弧を描く形のよい唇。

 口を開いたオルハさんに王様は人差し指を立てる。綺麗に整った細長い爪を見つめながらロロは考える。

 どうして王様はそんなことを訊くのか。

 嫌いじゃないと、ロロが言うと思っているのだろうか。

 わからない。

 わからなくて、逃げ出したい。

 沈黙を埋めるように雨が窓を叩いている。外は嵐だ。大がついても過言じゃない。不吉な知らせのように遠く轟く雷鳴。

「答えろよ」

「・・・・・・嫌いじゃないです」

 オルハさんが目を見開いた。対して、王様は楽しそうに目尻を歪める。

「好きとか、嫌いとか、そんなんじゃないです・・・・・・いやです、わたしは」

 王様は今の今まで掴んでいたロロの腕を離して足を組み換えた。

 そしてさらりと言った。

「じゃあ、しようか」

 あまりに淡々とした言いように、すぐには何を言っているのかわからなかった。

 する。

 戦争、を。

「しようか、戦争」

 卓上に広がっていた一枚の羊皮紙を王様は摘まんだ。素人でも一目でわかる高級な材質。重要な案件が刻まれているのだろうと窺える。細々とした文字が躍るその文面が縦に裂けた。横にも避けた。更に縦、横、細かくなった紙片を片手に握り、王様はロロの頭に振りかける。

「・・・・・・へい、か」オルハさんが呆然と王様を呼んだ。

「オルハ。あっちから持ちかけてきた終戦協定の申し出は破棄だ。さっさと攻めて潰す」

「ど、どう、いう・・・・・・?」ロロは床に散った紙屑を一つ一つ目で追った。もう戻らない。

 何も、取り戻せない。

「どうもこうもねーよ、ばーか。俺がするっつったらすんの。わかるだろ、さすがに。いくらお前が賢くなくたって」

 戦争。

 戦争をする。

 ロロの家族を奪った戦が。

 ロロを一人にした災厄が。

 ロロが。

 ロロの、せいで。

 お腹の中で熱いものが暴れた。

 ロロの仕事が終わらないように邪魔したり。人前で平然と辱めたり。嘘ばっかりついたり。何にも、本当のことは何一つ、教えてくれなかったり。

 そんなに。

「そんなにわたしのことが嫌いなら」

 ロロは怒った。怒りもする。相手が王様だとか関係ない。

 王様だからって、無辜の命を無下に扱っていいわけがない。

 王様だからって、人の気持ちを顧みなくていいわけじゃない。

「さっさと首を刎ねればいいじゃないですか・・・・・・っ」

 限界だ。

 もう、ここにはいられない。



 飛び出していく小さな背中。もう何度、繰り返しただろう。怒らせては、逃げられて。あの変わった召使いには悪いけれど、彼は楽しんでいる。楽しいと感じている。だってそうだろう。彼は一国の主だ。それなのにあの態度。馬鹿正直な性根はどれほど圧力をかけたって曲がらない。

「どうして試すようなことをするんです」

 蒼い髪の騎士が気苦労の絶えない濃い溜息を吐いた。彼は臣下の憂鬱を横目に見て、すぐに床に視線を落とした。散り散りになった紙片が地響きに似た遠い轟音に呼応して震えている。

 ただの納品明細だ。

 石ころほどの価値もない。

 それを本当に政治関連の重要書類だと信じて、ロロは部屋を出て行った。

 ロロは馬鹿だ。馬鹿だから単純な手に引っかかる。一番、初めの遊戯だってそうだ。あの金貨は両面とも同じ情景が彫られている。つまり裏も表もないのだ。どちらが表でどちらが裏か。それを決めるのは持ち主である。しかもその時々で変わるだろう。嘘はついていない。あの時、確かに、彼は引き当てた金貨の面を裏だとしたのだから。

 あいつは一生、気づかないだろう。

 馬鹿だからだ。

 ロロはばかなんですよ、王様。

 その意味がやっとわかった気がする。

 馬鹿だから、裏表がない。

 この金貨と一緒か。彼は懐から取り出した貨幣を指で弄びながら考える。自分はあいつをどうしたいのか。どうしたらいいのか。

 どうすることが、許されるのか。

「戦を起こす気なんてないんでしょう」

「ねーよ」彼は即答した。「嫌いだし」

 この戦は無意味の積み重ねだ。

 孤独な女神と双子の神。

 どちらの答えも間違っていないのだから。

 彼は王だ。

 主として悲しいこの国を導いていかなければならない。

 どこに辿り着くかは保証できないけれど。

「もしかして」オルハが驚きを含んだ声で言った。彼は顔を上げた。その際、机の上に放った金貨が小さく鳴った。

「好きな子ほどいじめたいって奴ですか」

 もうちょっと言い方ってものがないだろうか。

 彼の臣下は糞真面目で優秀だが、少し、いやかなり穴だらけだ。体の九割が天然成分でできている。ド級だ。そういう不完全な人間臭さが彼は気に入っている。むかつくけど。苛々するけど。

「そうだって、言ったらどうすんの」彼は挑戦的に顎を逸らした。壁際に立ったオルハを睨む。「お前、諦めんの。むしろ諦められんの」

「俺、ですか」オルハは不可解に首を傾げた。「俺が関係ありますか」

「気に入ってんだろ、あいつのこと」

 オルハははたはたと忙しなく睫毛をはためかせ、穏やかな微笑を浮かべた。悔しくはない。自分にはそんな優しい笑い方はできなくとも。羨ましいとは感じるけれど。

 この絵に描いたような優男だってのんびりと生きてきたわけじゃない。

 オルハは自身の妹を手にかけた。

 初陣の凱旋直後だったという。

 人を殺した罪悪感に苛まれ悪夢にうなされたオルハは、錯乱し、兄の様子を見にきた妹を八つ裂きにした。喉首に刃を突き刺し、手足を切り落とした。

 当時の国王――彼の父は、オルハを裁かなかった。そこに慈悲はない。情けをかけたわけじゃない。そんな心、奴は持ち合わせていなかった。

 面白い、と。

 そう言ったのだそうだ。

 罰を申し出た、自責の念に痩せ細った蒼い髪の騎士の、床に擦りつけた頭を踏んで。

 面白い、この俺の近衛にしてやろう、と。

 皮肉なことだ。この出来事がなければ、彼はここにいなかった。オルハとの出会いが彼の始まりだから。他者の不幸の上に成り立つ幸運。両手を挙げて喜べるような代物じゃない。だが彼はあえて感謝することにしている。その方がオルハの気が安らぐと知っているからだ。

 少しでも意味が欲しいと思うのは普通の感覚ではないだろうか。

 過去の辛い経験が今の自分に繋がっているのだと。

 彼にはそれがない。

 過去も現在も未来も断絶している。

 そうすることでしか生きられない自分は、愚かだ。

 罪の意識など感じさせない優しい瞳でオルハは言う。「いいお母さんになってくれそうだとは思うけど」

 彼の額に青筋が浮かんだ。「だ、れ、の」

「答えたら怒ると思いますよ」

「答えてるようなもんだろーが!」

 インク瓶を投げつけようとしたらさすがに止められた。

「冗談です。いいお嫁さんになると思います」

 余計、煽ってどうする。

 それに、とオルハは顎を撫で、「俺のロロへの愛情は、あなたへのものと似通っているかと」

「・・・・・・自己分析できりゃあ立派な大人だと思うなよ。己を理解した上でどう向上していくかを綿密に計画し実行できるのが年長者ってもんだ。つまり」

 熱い紅茶がたっぷり含んだポットを投げつけようとしたら全力で止められた。

「お前はまるで学習能力がない!」

「落ち着いて、陛下。俺が悪かったです。あなたが照れ屋なのは重々承知しているのに」

 もう何も言うまい。

 彼は机に突っ伏した。雨の日特有の黴臭さが鼻孔をついた。怒りも頂点を越えると疲労になるのだと身をもって知った彼である。

「追わなくていいので?」

「どうせ、あいつに行く当てなんかねーだろ」

 ロロは血の繋がらない家族のために働きにきていると聞く。国の外れにある教会。出向いたことはないので正確な数はわからないが、ロロの話からすると、かなりの数の孤児がそこで暮らしているようだ。仕事を放りだしたらどうなるか、あいつはよくわかっているはず。頭は悪いし不器用だが、正義感だけは一端だから。

 何故か奇妙な沈黙が下りた。

 彼は腕の隙間からそっとオルハの様子を窺った。

 口の端が歪んでいる。

 喋らないようにしているのだ。口を噤んで。自身の嘘の下手くそぶりをようやく自覚したか。

 こいつ。

 彼は鼻柱に皺を寄せた。

 俺に、嘘ついてやがる。

「罰ゲーム」彼は大げさに抑揚をつけて言った。「決めてなかったよな、この前の賭けごとの」

「負けを認めてくださるんですか」

「何でだよ」彼は机を叩いた。「現にこうして喧嘩してんだろ」

「・・・・・・まさか」蒼白になるオルハの顔。「まさかとは、思いますが・・・・・・俺に負けたくないから、ロロに意地悪したわけじゃないですよね」

 彼は笑う。「さーね」

 やはりこの男は彼をよくわかっている。

 彼に負けは許されない。

 たとえどんな些細な勝敗でも、勝利の二文字しか彼には存在しえない。

 オルハとはもう十数年を共に生きてきた。互いを知っているのは当たり前か。いや、と彼は思い直した。当たり前なんかじゃない。例え一生を添いとげたって、理解しあえない相手もいる。そう考えると、そう、とても大切なことだ。彼は大切だ。オルハも、ラナシも、給仕長も、厩舎に詰める騎士も、国の土台を支える召使いも、時に笑い時に涙し生を謳歌する民も。

 同時に、彼を貶めたのも彼らだ。

 この国だ。

 壊したくなる。

 時たま、どうしようもなく。

「俺はな」

 嘘をつかれた時は――特に。

「嫌いなんだよ、嘘はな」

 オルハの瞳孔が小さくなった。

 逃がさない。

 彼が口を開いた瞬間だった。

「あんた、今度は何をやらかしたんだい!」

「・・・・・・は、あ?」

 修理が面倒くさくて外れたままの扉の枠いっぱいに肉の塊が広がった。恰幅の良すぎる給仕長が入り口を腹で塞いだまま怒鳴った。

 いや、つーか。彼は気力を削がれて項垂れた。つっかえるとか、どんだけ。

 給仕長の鼻は真っ赤だ。目は充血して猟奇的な光を帯びている。怒り心頭だ。部屋に踏み込めたら、逆さに吊り上げて絞られるくらいのことにはなっていたかもしれない。彼は給仕長の底をつかない食欲に残飯処理以外で産まれて初めて感謝した。

「ロロが城門を飛び出していったんだよ!」

「はああ?」

 彼は窓を振り返った。外は嵐だ。遠かった雷鳴も今や真上で轟いている。大粒の雨は亡者の訪問のようにガラスを叩き割らんばかりだ。こんな天候で外に出るなど自殺行為である。

 いくら体力馬鹿だって、あんな小さな体でこの突風に耐えられるのか。

「まじかよ」

「大真面目だよ、あたしは!」

 彼は椅子を蹴倒して立ち上がった。

「馬鹿の極みだな!」

 もうバカなのかカバなのかわからなくなってきたぞ。



   * * * * *



 神父様。

 まだ幼いロロは、自身の体を抱き上げる父代わりの聖職者に訊ねた。

 雨は、どうして降るのですか。

 神父様は喉を摩りながらこう答えた。

 神が嘆いておられるのですよ。

 その恵みでもって渇いた人間の心を潤そうとしておられるのです。

 吹きつける風に意識が飛びかけたロロに、温かな記憶が甦った。小さなロロは、よく神父様にだっこをねだり、温もりの中で色々な質問をしたものだ。あの頃は無邪気だった。今は少しうんざりしている。だって神父様。これは嘆きというより怒りのように思えます。悲しむ余裕などないほどの憤激です。

 空は炭のように真っ黒だった。降りそそぐ冷たい雨は街を沈めてしまいそうな勢いだ。当然のことながら、街中には人っ子一人いない。こんな嵐の中、外を出歩くなんて馬鹿しかいないだろう。ロロはばかなのでいいのである。

 飛びだしてきたはいいものの。

 王都を出て、どこに行こう。

 教会に帰ったら、神父様はお怒りになるだろうか。それとも、お帰り、よく頑張ったね、とロロを優しく迎えてくれるだろうか。そうしてロロは甘えるのだ。慈悲深い心を利用して。

 そんなの嫌だ。

 だけど、もう城には戻れない。

 戦争が始まったら、こんなことを考える必要もなくなるだろうか。

 もし両国が衝突すれば、国境で挟まれた教会は跡形もなく消え去るだろう。皆、死んでしまう。いなくなってしまう。それは会ったことのない両親に思いを馳せるより辛い想像だった。そうだ。ロロは、神父様や、教会の皆がいればそれで良かった。神様なんていなくても満たされていた。他には何も望まなかった。

 本当に。

 本当に、そうだろうか。ロロは何も望まなかっただろうか。

 脳裏をよぎる、紅の。

 足が止まった。いけない。進まないと。立ち止まることだけは。振り返っても引き返してもいい。ただ、立ち止まることだけは。前にも後ろにも進めなくなってしまう。動かなく、なって。

 ロロは駆け出した。

 細い小路から黒い影が現れるのとほとんど同時だった。

「ぐはぁ」「わきゃっ」

 頭から何かに突撃する。

 何か。

 前にも、似たようなことが。

 腹を抱えて蹲る影が顔を上げた。二人は互いに人差し指を突きつけて叫んだ。「あーっ!」

「この前の田舎娘!」

「この前の嘘つきさん!」

 ぼさぼさだった髪が雨に濡れてしっとりしていたからすぐには気づかなかった。カペラさんだ。ロロを騙して他国に売り渡そうとした悪徳商人。

 カペラさんは頭ごなしにロロを怒鳴りつけた。「こんの糞ガキ・・・・・・! お前のせいで逃げ出すのにすっごい苦労したんだからな、どう落とし前つけてもらおうか・・・・・・!」

「な・・・・・・」ロロは絶句した。「悪いのはそっちじゃないですか! ロロがばかだからって、騙すなんて」

「馬鹿だから騙すんだろ!」最もである。

 カペラさんはがしがしと頭皮を掻き乱し、「もう逃がさないぞ。今度こそ一緒に来てもらうからな」

 掴まれた腕をロロは振り回した。「離してーっ」

「うお、こ、この怪力娘が、妖怪かあんたは!」よろめいて壁にぶつかりそうになったところを受け身で堪えたカペラさんは、雨の中でもはっきりわかるほど冷や汗をかいている。

 ロロは馬鹿だけどもう騙されない。身売りに出されるなんて御免だ。

 王様にもう会えなくなるなんて。

 ロロははっとした。

 何か今、自分は矛盾に突き当たった気がする。何だろう。何が。わからない。自分が。ロロはもう、おかしくなってしまいそうだ。

 困惑するロロに、カペラさんは例のバツの悪い顔をして、「売ったりしないし。いいからついてきて」

「・・・・・・売らないのに」ロロは首を傾げた。「ついていかなきゃいけないんですか」

「人攫いは性分なのよ、俺」

「はあ」

 頭がぼーっとして働かないせいで流されたロロは頷いてしまう。

 ぶん、と頭上で風がうねった。自然なものではなかった。ぎゃは、と変な悲鳴を上げてカペラさんが尻もちをつく。

 振りきれた鉄パイプが雷光に照らされる。

 当たったら怪我ではすまない勢いだった。カペラさんが咄嗟に避けなかったら、最悪の事態も起きていたかもしれない。

「へ、へい、か・・・・・・」呟くカペラさん。

 ロロは後ろを振り向けない。

「ちっ」雨粒を弾く紅の頭髪がロロの前に出た。「外したか」

 どうして。

 ロロは目の前の光景を信じられずにいる。

 王様は鉄パイプを肩にかつぎ、カペラさんの左手を踏みつけた。「約束、したよな」

「あ、ぐ・・・・・・」

「多少のやんちゃは目を瞑ってやったろ。お前は恩を仇で返そうってわけ」剣呑な色味を帯びる王様の瞳。「ちょっと調子にのってるんじゃねーの」

 王様は足首を捻った。カペラさんの手から骨が軋む音がした。「ああ・・・・・・っ」悲痛な悲鳴がロロの足を竦ませる。

 カペラさんは涙交じりに抗議した。「だ、だけど、こっちはこっちで、R指定映像フィルムを横流ししたりとか」

 あーるぐれい?

「しゃらっぷ!」王様が鉄パイプを振り下ろした。脳天に食らったカペラさんは昇天寸前だ。

 王様は咳払いをして改め、「いいか、約定が守れないのなら、この国から出て行け。二度とうちの敷居をまたぐな」

「わ、わかりました、わかりましたよ! 誘拐なんてもうしませんから!」

 必死の謝罪。王様はふんと鼻を鳴らした。解放された手を庇うようにしてカペラさんが立ち上がる。

「それとお前!」這う這うの体で去っていく背中に王様は鉄パイプを突きつけた。「金髪碧眼の派手な女は好みじゃねーっつったろ! さりげなく自分の趣味押しつけてんじゃねーよ! 次のフィルムはもっと清楚なやつを用意しろ!」

「へい!」

 ロロは複雑な気持ちで成り行きを見守った。

 詳しくはわからないが、気持ちがどす黒くなる話題な気がする。

 激しい雨音でも押し流せない沈黙の帳が下りた。

 重い空気に押し潰されそうになる。王様はロロに背を向けたまま、こっちを振り向きもしない。

 彼は何をしにきたのだろう。

 罪人の首でも刎ねにきたのだろうか。

 王自ら手を下さずとも、ロロはもう二度と、彼の前に顔を見せるつもりはなかったのに。それとも、存在すら許せないほど、ロロを。嫌いなのか。それはもう憎しみに近いのではないか。ロロは馬鹿だから。もっと、もっと自分が賢かったら。

 足音を忍ばせて踵を返すと、おい、と低い声に呼び止められた。ロロの肩が跳ねる。

「待てよ」

「・・・・・・待たない、です」

「いいから」

 ロロの二の腕に触れた手の平は冷えきっていた。身を捩るも、カペラさんを突き飛ばした時のような力は不思議と出なかった。

 嫌がる素振りを見せながら、ロロは本当は嫌じゃない。

 正反対だ。

 こんなの、初めてだ。

 心が言うことをきかないなんて。

「離してください」迷いを跳ねのけるようにロロは言う。「わたしのこと、嫌いなんですよね。出て行きますから、だから」

「言ってねぇ」王様は繰り返した。「嫌いだなんて、言ってねぇ」

「そんなこと、言って」ロロは拳を握った。「態度でわかりますよ・・・・・・!」

「・・・・・・だとしたら」この時の王様は少し恐かった。怒っている様子ではなかった。それなのに、ロロは身が竦んだ。「お前は、俺の何も見えてないってことだな」

 ロロは下唇を噛み、俯いた。雨が跳ねて白っぽい石畳。

「・・・・・・見せてくれないくせに」

 王様がたじろいだのが空気で伝わった。ロロを繋ぐ腕が小さく震えた気がした。

「もう、やです。ここにいるのも、戦争するのも、やなんですよ」

「しねぇよ」

 ロロは僅かに顔を上げた。盗み見るように見た王様の顔は雨に煙ってぐちゃぐちゃだった。

「しねーよ、戦争なんて。さっきのは、・・・・・・冗談だ」

「嘘」

「嘘じゃない」

「だって、さっき」

 王様が破いた書類は、とてもとても大事なものだったのだろう。機密事項というやつかもしれない。ロロが触れることも許されないくらい、大切な。

 あんな紙切れ一枚で、何千何万もの人が死ぬのだ。

 やっぱり神様なんていない。

「さっきの、は・・・・・・」王様は口ごもった。言いにくそうだ。「・・・・・・さっきのは、魔がさした。あれは、違う。とにかく」

「何が違うんですか」

 王様はごにょごにょと口の中で何か呟いていたが、ふいに髪をばりばりかいて、だーっ、と叫んだ。「俺が違うっつったら違うんだよ! 馬鹿は馬鹿らしく難しく考えんな!」

「ほ、ほんとに」飛びついて体を揺さぶってしまいたい衝動を何とか抑え、ロロは訊いた。「ほんとに、しないんですか」

「さっきからそう言ってる」

「でも王様は、嘘ばっかり、だから」

「じゃあ、するって言えば嘘になるのか」

 ロロは頭を抱えた。王様が嘘をついているのだとしたら、しないと言ったらすることで、すると言ったらしないことで――でももし、それも嘘だったら。嘘をついてるのも嘘だったら、えっと、つまり、どういう、う、どっちだ。最近、自分でもばかばか言い過ぎて本当に頭が働かなくなってきた気がする。

 だけど一つだけ、わかることはある。

 ロロは諦めたように笑った。自分らしくない笑い方だった。

「でも、王様がわたしのことを嫌いなのは、変わらないですよね」

 王様は何も言わない。

 ロロは足元の水溜りを足で跳ねさせながら続けた。

「もうやです。優しくされたと思ったら、冷たくするし。嬉しくなったり、悲しくなったり。嬉しいと、余計に悲しいし、悲しいと、それだけ嬉しいし。そうすると、次はもっと悲しくて、その次はもっともっと嬉しくて、その次の次はもっともっともっと悲しくて」

 おかしいな、と自分でも思った。

 これじゃ、いじけているみたいじゃないか。

 ロロは王様に怒っているはずなのに。

「疲れちゃいますよ。体力馬鹿なロロだって」

 ざ、と雨が強さを増した。雨音に紛れてもロロの耳ははっきりと捉えた。

 苛々する、と。

 王様は、尖った声で呟いた。

 ロロは王様に怒っていたはずなのだ。

 それなのに、胸に去来するのは悲しみばかりだ。

 零れる涙も雨に溶けて消えてしまう。ロロは王様の横を通り抜けた。腕はいつの間にか離れていた。もう二人を繋ぎとめるものは何もない。今なら簡単に離れていける。

「どうして」

 震える声。

「どうして、気づかない・・・・・・!」

「何をです!」ロロは声を荒げた。これは怒りじゃない。悲しい。身を引き裂くような悲しみが激情となって溢れる。「いっつも、肝心なことは何も言ってくれないくせに、何に気づけって言うの!」

「俺は、自分から負けを認めるなんてできない。負けちゃいけないんだ、俺は。それなのに、どうして、俺は、お前が」

 苛々する、と王様は前髪を掴んだ。

「お前は、わからないから、だから」

 私もわからない。

 あなたのこと、何も知らないもの。

 でもそれ以上に、王様は、自分のことがわからないんじゃないかと思った。

「気づけよ」

 無理だ。

「言わなくても、気づけ」

 ロロにはできない。

 この人を理解したいと、気が狂いそうなほど願っても、ロロにはできない。力が足りない。もっと賢かったら、ロロがもっと聡かったら、いられるだろうか。

 孤独で在ろうとする優しい王の傍に。

 いられたら。

 背中に重みを感じた。

 寄り掛かるように後ろから回された腕。

 それが抱擁だと気づくのに時間はかからなかった。

「これでもか」

 ぎゅ、と、今までにないくらい、強く、抱きしめられて、耳元で囁く声は、とけてしまいそうで、だから、ロロは動けなかった。息が詰まって、もう何も考えられなかった。考えなくていいと思った。ロロはばかだから、考える必要なんてない。

「わかりません」

 王様がロロの肩を掴んだ。体を回され、女の子なら誰しもが夢見る王子様の口づけとはほど遠い、荒く、猛々しい、噛みつくようなキスが。

 一瞬、触れて、一瞬で、離れる。

「これでもか!」

「わかんない」

 ただでさえ悪い視界が涙で何も見えなかった。物の輪郭さえも曖昧で、それでも、彼がそこにいることだけはちゃんとわかった。花が咲いてるみたいだと思った。綺麗な紅い花。ロロが大好きな色の花。

「わかんないよぉ・・・・・・」

「っ・・・・・・」王様は息をのみ、「馬鹿野郎・・・・・・!」

 頬を優しく包まれた。

 やはり急ではあるけれど、今度の口づけは、長く、柔く、甘かった。体の芯までふやけてしまいそうだった。

 望んでしまう。

 過ぎた願いであるはずなのに。

 どうしたって、望んでしまうのだ。

 王様の胸に顔を埋め、ロロは泣いた。許されるだろうか。許してくれるだろうか。傍に、いても、いいのだろうか。誰に許しを請えばいいかも判然としないくせに、ロロはそんなことばかり考える。考えている。

「これでも、わかんねぇか」

「・・・・・・ばか」嗚咽の合間にロロは叫んだ。「王様のばかぁ」

 ふ、と目尻を緩めて王様が笑う。「馬鹿はお前だろ」

 大粒の雨が吹きつける大通りで、二人はぎゅっと抱きしめあった。王様の体は冷たくて、ロロの体は熱かった。それでいい。決して交わらないからこそ、共にいられるのだ。

 どれだけそうしていたか。ロロが小さくくしゃみをすると、ようやく王様は抱擁を緩めた。そうしてロロの髪を啄ばむと、あーあ、と力なく肩を落とした。「負けちまった、あんな深海のいそぎんちゃく頭にのっけてるような奴に」

「みそでんらく・・・・・・?」

「お前は頭だけじゃなくて耳まで悪くなったのか」

 情報処理能力が低下しているだけだ。心外である。

 でもまぁ、と王様はロロの唇を指でなぞり、「お前との賭けには勝ったから、いいや」

「うぇ」ロロは仰け反った。「わたし、何て賭けましたっけ」

 ふふん、と王様は上機嫌である。「さぁね」

 とりあえず。

 罰ゲームとして、帰ったら一緒に風呂入ってもらうかな。

 奇声を上げて張ったロロのビンタを、大笑いする王様がひょいとかわした。



 全身ずぶ濡れで帰るのはこれで二度目だ。

 雨風はまだ激しい。あちこちで看板やら植木鉢やらが飛び回っている。辺りを注意深く観察しながら壁伝いに歩く王様と、その後ろを身を竦ませながらついていくロロ。

 王様はうんざりと言った。「こりゃオルハにこっぴどく叱られるな」

「すみません・・・・・・」

 ロロのせいで王様まで危険な目に晒してしまっているのだ。追いかけてきたのは王様の意思とはいえ、彼が怪我でもしたらロロは責任がとれない。

 項垂れるロロに流し目を寄越し、く、と王様は喉を鳴らす。「風邪、引いたら看病してくれよ」

「も、もちろんです・・・・・・!」ロロはぐっと両拳を握りしめた。「侍女の務めですから」

 王様は何故か複雑な表情を浮かべた。きりっとした柳眉も今は力ない。黙られてロロは焦った。「お、王様。どうし――」

 びし、とロロの額に人差し指が突き立つ。

「お前、本日付でクビな」

「ほぇ」

 下された指令が鼓膜を反響する。

 くび。

 クビ・・・・・・?

「ほえええええええええっ!」

「また新しい奇声を・・・・・・よく喉痛めないな」

「だ、だだ、だって、く、くび、くび、びびび・・・・・・っ」

 今更ではないか。これまでのやり取りは一体、何だったのか。喧嘩して、家出して、また喧嘩して、キスまでしたのに。

 ロロは固まった。

 き。

 きす・・・・・・っ。

「ほぐわああああああああっ」

「な、何、今度は」

 王様、若干、引き気味である。

 はあ、と彼は溜息を吐き、「落ち着け。人の話は最後まで聞け、このカバ」

「カバ?」

「いいか。一度しか言わないぞ」

 肩越しに振り返った王様は自信に満ちた笑顔だった。

 これだ、と思った。

 ロロが見たかった笑顔。

 自嘲でも嘲笑でも演技でもない、偉そうで高慢ちきで高飛車な、でも安心できる、ロロが大好きな。

 ロロが守りたかったもの。

「今からお前は俺の――」

 雷鳴が轟いた。

 稲光に眩む一瞬の光の世界。

 ロロは見た。

 彼の体に重なる、フードに覆われた口元。

「あ、れ・・・・・・」

 ロロは呆然と首を巡らせた。いない。すぐ傍にいたはずの、やっと手が届いたはずの、紅の髪が、どこにも。

 雨に紛れる異臭。

 ロロはくんと鼻を鳴らす。雨煙に混じって濃い鉄錆のにおいが漂っている。

 ロロは立ちつくした。

 石畳に横たわる長身。広がる血。

「お」

 その腹部に深く突き刺さる刃の柄。

「おうさま・・・・・・?」


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