第二章「その嘘、綺麗に剥いちゃる!(二)」
(二)
二十五年前、一人の女が松山観光港近くの岸壁沿いで、遺体となって発見された。
彼女の名前は、瀬戸凪沙。
事件当時三十五歳。
最初は、事故と思われたが、首に圧迫痕があることから、殺人の可能性も考慮され捜査本部が立った。
当時の参考人として最も疑われたのが、黒田啓輔(弁護士・事件当時三十七歳で現在六十二歳)である。当時山口県で開催された「二十一世紀未来博覧会」、通称・山口きらら博に、凪沙と二人で出かけていたこと。
転落したと思われる船に一緒に乗船していたこと。
何より凪沙の首に巻き付いていたネクタイが、啓輔の物と一致した点を上げた。
さらに、宇多津亮が殺害された京都市内の現場は、黒田啓輔の自宅からかなり近い位置にあった。
昨日、柑奈が聴取した瀬戸裕太の話から、宇多津亮が黒田啓輔の弱みを握り、京都まで恐喝に向かった可能性が浮上していた。
次に、瀬戸凪沙が二十歳の時に倉敷で半同棲だった、児島誠司(事件当時三十八歳で現在六十三歳)。
三番目に、瀬戸凪沙が二十三歳の時に知り合って、山口県で結婚した椋梨慎吾(事件当時三十七歳で現在六十二歳)。
最後が、殺された宇多津亮である。彼は、凪沙が転落したとみられる船に乗船していたこと。凪沙にら多額の生命保険を自分が受取人として契約していたこと等から、宇多津亮が事件に関わっていると見ていた刑事もいた。
「ただ、黒田の家に向かった班からの話では、五月二十八日の朝から三日間の予定で、友人と九州旅行に出ていたと黒田はそう説明しています」
神楽がスマホの画面を見ながら言った。
「裏は?」
勝平が短く訊いた。
「京都駅の新幹線の改札にある防犯カメラに一人で入っていくところを確認しています」
神楽が即答する姿に、
《さすが神楽ちゃんじゃ。裏取りまで早いぞな》
と、感心していた。
午前の説明が一区切りついたところで、捜査員たちはいったん昼休憩に入った。午後からは愛媛、京都の刑事達がそれぞれの捜査に入ることになっている。桔平と神楽は地取り――つまり関係先の聞き込みに回る班で、美柑と柑奈が付いて回ることになった。
本部を出たところで、桔平が、
「腹へった」
と言うと、
「うちも腹へったぞな」
美柑も同じタイミングで言った。
「あんた、ダイエットするんじゃなかったの」
あきれた顔で柑奈が言う。
「ええんじゃ。明日から気張るぞな」
と言った。
「きゃあ、神楽様ぁ、お久し振りですぅ」
どう考えても本部前で待ち伏せしていたきういが、割り込んできた。
――浦波きうい。二十九歳。
松山地方裁判所の近くに事務所を構える弁護士で、浦波三姉妹の次女である。
その顔立ちは、長女の柑奈とうり二つだった。
黙って立っていれば、刑事と弁護士という職業の違いを差し引いても、一瞬見間違えるほどよく似ている。
だが、表情の動きだけはまるで違う。
柑奈が冷えた刃物なら、きういはよく切れる刃物にリボンを巻いたような女だった。
愛媛県立松山東高校から関西学院大学法学部へ進み、神戸大学法科大学院を経て二度目の司法試験で合格。大阪の法律事務所勤務を経て、松山に戻った。
得意分野は離婚、DV、ストーカー、相続、被害者支援。
普段は冷静で口の立つ弁護士だが、大月神楽を前にすると、法廷で鍛えた論理力が一瞬で消える。神楽とは昔からの仲なのに、本人いわく、神楽は「現実に存在するオスカル様」である。
「お久しぶりです、きういさん」
神楽が少し戸惑ったように返した。
間近でその声を聞いたきういは、くらぁっと気を失いそうになった。
《きうい姉、乙女じゃの。弁護士の顔、どこ置いてきたんぞな》
美柑は目がハートのきういに冷たい視線を送った。
結局、四人――いや、五人は、県警本部近くの食堂の一角で、遅い昼食を取ることになった。
せっかく桔平と神楽が松山まで来たのだから、ただの定食ではつまらない。
美柑が選んだのは、松山名物の鍋焼きうどんだった。
銀色の小さなアルミ鍋に、甘めの出汁がなみなみと張られ、やわらかな麺の上には卵とちくわ、牛肉がのっている。
「これぞ松山の昼ごはんぞな」
美柑は、箸を割る前から満足そうに言った。
「甘い出汁やな」
桔平が一口すすって、少し目を細める。
「そこがええんじゃ。京都の人は、なんでも上品にしすぎなんよ」
美柑が胸を張ると、桔平が湯気の向こうで眉を上げた。
「なんや、喧嘩売っとんのか」
「売っとらんぞな。ご当地案内じゃ」
そこで美柑は、なぜか得意げに言い足した。
「ま、細かいことは気にせんでよか。松山に来たからには、黙って食べるでごわす」
「それは薩摩の言葉です」
神楽が静かに突っ込んだ。
「きゃあっ」
隣で、きういが小さく悲鳴を上げた。
「神楽様のツッコミ……いただきました……」
《きうい姉、うどん食べる気あるんかの》
美柑は、冷たい目で姉を見た。
その横で、きういはうどんにほとんど手をつけず、神楽が静かに箸を動かす姿だけを見つめていた。
「桔平、いい加減にして。ランチの時ぐらい、嬉しそうな顔しなさいよ」
ぶつぶつ呟いている桔平に、柑奈がたしなめた。
「あれやな、柑奈姉もうちの姉ちゃんに似てきたな」
桔平が姉の瑠璃を引き合いに出して揶揄った。
「はあ?」
「柑奈さん、大丈夫です。会議の後は、いつもああですから」
《へえ、そうなんじゃ》
美柑は頭の中にある桔平ゾーンに、また一つデータを上書きした。
「それに、きうい。あんた宝塚に行ってたんじゃないの」
柑奈は、うっとりした目で神楽の隣に座っている妹へ視線を向けた。
「いいの」
きういは、神楽から一ミリも目を離さずに答えた。
「いいの、じゃないでしょ。帰ってくるの、明日だったはずよ。お母さんはどうしたの」
「知らない」
柑奈の小言など、きういにとっては聞き慣れている。
それより今は、隣に大月神楽がいる。
現実に存在するオスカル様が、味噌汁を静かにすすっている。
《きうい姉、完全に目がいっとるぞな》
美柑は、別注文の唐揚げを噛みながら心の中でつぶやいた。
その時、神楽のスマホが鳴った。手に取ったスマホを見て親指を立て、「山際のオヤジ」からだと合図をした。周囲に一般客がいないことを確かめてから、通話をスピーカーに切り替えた。スピーカーにした。
「はい、大月です」
『おお、わしや、京都府警捜査一課長の山際や』
《いちいち役職まで言わんでも、誰からの着信か見れば分かるぞな》
美柑が、心の中で突っ込んだ。
『ウガンダ見てへんか』
ウガンダ――。
それは、宇賀田桔平につけられた、本人にとってはまったく笑えないあだ名だった。
きっかけは、京都のウェブニュースサイトの記者・高梨未央という人物らしい。
『宇賀田でウガンダ警部補。可愛くないですかぁ』
などと面白がって記事にした結果、その呼び名は京都府警本部だけでなく、府内の警察署にまで広まってしまったという。
《それ、桔平兄ぃからしたら、可愛いどころやないぞな》
露天風呂で神楽から聞いた時、美柑は心底そう思った。
「えっ?」
桔平が、「おらん言うとけ」と、神楽に耳打ちした。
「え……はあ。ここにはおりませんが」
『これから伊予君と飯いこかぁって言うとったんや。伊予君も堅物やさかい、あいつにええ店探すように、地取り班に入れたのに、消えよってん』
「……はあ」
と言いながら、桔平を見る神楽が、
「あの……それだけですか?」
と、訊いた。
『えっ?ああ、ちゃうねん、今な京都から連絡入ってな、京都駅の防犯カメラに児島誠司と椋梨慎吾に似た男が映っとったらしいわ』
その言葉に、箸を持っていた全員の手が止まった。
「……児島と椋梨までも、京都に?」
柑奈が眉を寄せた。
「ほんでな、ウガンダに岡山まで行って、児島に会うてきてもらおうと探しとんねん」
山際の言葉に、桔平は露骨に顔をしかめた。
《あ、今ぜったい、何で俺が行かなあかんねん、って思うとる顔じゃ》
誰が見ても分かるくらい、嫌そうな顔だった。
『児島は、凪沙が二十歳の時に最初に転がり込んだ相手やろ。そこを先に押さえたい』
「知らんがな」
と、桔平が呟いた。
「課長、言い方」
神楽が静かに言った。
『あ、すまん。世話になっとった相手や』
山際が素直に非を認め訂正した。
「すみません、お電話お借りします。愛媛の伊予柑奈です。先程の……」
柑奈が割り込もうとしたとき、山際が、
「おお、伊予君の奥さんの伊予柑さんやねぇ」
「はい?」
「昨日、美柑君が教えてくれたんや」
「いえ、伊予柑奈です。かなです」
柑奈が冷たい視線を美柑に向ける。
《うち、おしゃべりな男は嫌いぞな》
と思いながら、美柑は視線をそらした。
『あと、いなかっぺもおると聞いた……えっ……ああ伊予君、それ、君のことやってんな……そうかぁ』
電話口の向こうで何やら話していた。
《うち、余計なこと言う男も大嫌いぞな》
美柑は、睨んでくる柑奈にテヘッと笑ってごまかした。
「こら、お前。男なんぞ信じたらあかんて、いつも言うてるやろ」
と、きういがいきなり地を出して美柑に言った。
その場にいた全員が、すっと引いた。
神楽だけが、静かに箸を置いた。
「……深い教訓ですね」
「きゃーっ、神楽様が受け止めてくださった……!」
きういが、くらっとなって、気を失った。




