第二章「その嘘、綺麗に剥いちゃる!(一)」
(一)
道後温泉は、日本最古の温泉といわれてる。
その昔、一羽の白鷺がその湯で傷を癒やしたという伝承もあった。
そんな歴史を持つ温泉街に建つ白鷺楼は、江戸時代創業の老舗旅館で、幾度の建て替えを経て現在に至る。玄関は数寄屋造り風で、古い木の梁と磨かれた石畳が残る。大広間は畳敷きで、襖を外せば五十人ほど入れる広さになる。
今回の「京都府老人福祉会」こと合同会議も、ここで行われた。
露天風呂は、旅館の奥庭に面していた。岩を組んだ湯船の縁には低い竹垣が巡らされ、湯気の向こうに、雨を含んだ青もみじが揺れている。
道後の湯はアルカリ性単純泉で、肌にやさしく刺激が少ない湯とされていて、肌にまとわりつくような重さではなく、さらりとしているのに、しばらく浸かっていると体の芯まで温まってくる。
そして湯面に映る灯籠の火が、風に揺れるたびに細く崩れて情緒を誘う。
そんな露天風呂で美柑は一人、体を沈めていた。台風の影響か分からないが、顔に吹き付ける風が変に心地よい。
《結局、桔平兄ぃと、話せんかったぞな》
と、美柑は深いため息をついた。
そのとき、脱衣所へ続く引き戸の開く音がした。
「眠れないのですか」
優しく声をかけてきたのは、神楽だった。どうやら、同じ部屋で寝ていた美柑がいなくなったことを心配して、様子を見に来たらしい。
泣きそうな美柑の顔を見て、
「そんなに彼のことが好きなんですね」
と、神楽が言った。
その言葉に気恥ずかしくなった美柑は、心の内を隠すように両手で湯をすくって顔をすすいだ。
「そがいなんじゃないぞな。桔平兄ぃは、兄ちゃんみたいなもんじゃけん」
と、お湯に映る自分の顔を見ながら話した。
「綺麗な星ですね」
神楽が空を見上げて言った。
「こんな綺麗な星を見ていると昔を思い出します。覚えてますか?神社の山頂にある岩のこと」
「忘れたことなんぞ、一度もないぞな」
そう、美柑はあのときの桔平の背中を、忘れた事などない。
美柑が六歳の夏だった。宇賀田神社の祭司家とは親戚筋で、愛媛県の氏子総代でもあった母親に連れられて神社に行ったときのこと。
この神社の頂上に、大きな岩のご神体があると聞いた美柑は、興味もあり内緒で神社の奥へと歩いて行った。桔平と神楽はともに十四歳、中学二年生だった。
頂上に着くと、美柑の目の前に、しめ縄を巻かれた大岩があった。子供心にも何か触れてはいけないと思い、足がすくんだ。
そして山に入った時間も悪かった。
徐々に日が傾くにつれ、深くなっていく山の暗さが異様なものに見えてくる。鳥の声さえ誰かの悲鳴に聞こえて、とうとう泣き出した。
泣いたとて状況が変わらないことは分かっている。しかし、ここから動いてはいけないようにも感じていた。そして辺りは闇に包まれた。
泣き顔のまま見上げた星空が、美柑を慰めてくれているように思った。
その時、ガサガサと音がした。
驚いた美柑は、再び声を上げて泣き出した。
「おおっ、ほれ見てみぃ神楽。俺の言うた通りやろ。坊主がおったでぇ」
「本当によかったです」
桔平と神楽の声を聞いて、安心した美柑は二人の元へ走り出した。
「桔平兄ぃ」
抱きついて泣きじゃくる美柑に、
「もう大丈夫やで」
桔平は頭を撫でてくれた。
何かがポタポタと落ちてくるのを感じて、桔平の顔をみた。
その顔は血と泥で黒く汚れて黒く、目だけが異様に白かった。
――美柑は気を失った。
「そうでした。あのときの彼は急ぐあまり、沢の石につまずいて、ご神体の岩に頭をぶつけていました」
神楽と美柑は当時を思い出して笑い合った。
「その後の彼のことを話しましょうか」
「聞きたいぞなもし」
美柑が聞き返した。
神楽は満天の星を見ながら話を続けた。
「なあ、神楽」
と桔平は神楽を見ずに言った。
「なんですか」
「こんな展開、前にあったような気ぃすんねん」
と、忘れた記憶を手繰るように、訊いた。
「どんな展開ぞな?」
「多分、彼と初めて会ったとき、私を虐めていた子が投げた石が彼の額に当たってしまったの」
「それでどうなったんじゃ?」
「怖くて、彼が暴れているところは見ていません。でも、私の肩を叩いて、「お前、大丈夫か」って声をかけてくれた彼の顔が、血で真っ赤になっいて。その後ろに立っていた女性の笑顔が怖くて気を失ったの」
と神楽が懐かしそうな目で言った。
後ろに立っていた女性……というのが気になった美柑だが、
《まあ、近所の人じゃろ》
と、自分を納得させた。
「ほしたら、桔平兄ぃの額のV字の傷は……」
美柑が指で自分の額にVを書いて神楽に訊いた。
「そうです。私と美柑ちゃんの時のものです」
そう言って、二人は笑った。
「こらお前ら、大きい声で、人の傷を笑たらあかんやろ」
隣の男湯から桔平の声が聞こえた。
「それはすみません。一人ですか?」
と、神楽が桔平に声をかけた。
「そや、最後まで残っとった安田も寝てしもた」
「じゃ、私たちと一緒に入りませんか」
隣の男湯で、バシャンという音が聞こえた。
「あ……あほかお前ら。世間体っちゅうもんがあるやろ」
《桔平兄ぃ、意外とうぶぞな》
神楽と、美柑は顔を見合わせてクスクス笑い合った。
ただ、桔平に背負われていたとき、暗い山道をまっすぐ駆け下りていく桔平の前に、何か青白く光っていたものが見えていたことは神楽には話さなかった。
それが何だったのか、美柑には今でも分からない。
ただ、今思えば、あの光が、桔平をどこかへ導いていたように思えてならなかった。
六月二日(火)――。
この日、愛媛県警本部の会議室は緊張に包まれていた。帳場(捜査本部)はまだ立っていないが、捜査関係者の熱気だけ見れば十二分にその体をなしている。
冒頭、京都府警本部・捜査一課、第七班係長の大月神楽警部から、京都で起きた宇多津亮刺殺事件の概要が発表された。
「令和八年五月二十八日未明。場所は、京都府警本部に近い護王神社の駐車場です。
同駐車場を利用している近隣住民が、ワンボックスカーの荷室内で倒れている宇多津亮を発見し、事件が発覚しました。司法解剖の結果、死因は背部からの刺創が心臓に達したことによる失血死。刺突角度などから、犯人の身長は百七十センチ前後と推定されています」
ホワイトボードには、被害者の名前と住所が太い黒字で書かれていた。
被害者 宇多津亮 五十八歳
愛媛県松山市天山一丁目 アパート「まひる荘」在住
その横には、京都府警から共有された現場写真が数枚、磁石で留められている。ワンボックスカーの後部、血痕の位置、そして護王神社駐車場の見取り図。
京都の事件であるはずなのに、ホワイトボードの住所だけが、妙に愛媛県警の空気を重くしていた。神楽が資料を捲りながら続けて、
「車両は、京都駅近くのレンタカー会社で借り受けたものでした。被害者は五月二十八日午後三時、同社でワンボックスカーをレンタルしています。現在、京都駅周辺を起点に、被害者の移動経路、接触人物、防犯カメラ映像を精査中です」
この後、神楽は、被害者の所持品、財布と携帯電話見つかっていない状況など、一つずつ丁寧に説明した。
「以上が、京都府警で把握している事件概要と、現在の捜査状況です」
そう締めくくると、神楽は静かに着席した。
《さすが神楽ちゃんじゃ。話がよう整っとって、分かりやすいぞな》
美柑は資料の文字を、いつもの癖で指でなぞりながら読んでいた。
次いで、愛媛県警の刑事が宇多津亮の経歴を説明した。
昭和四十三年五月十一日、香川県高松市生まれ。地元の高校を卒業後、建築、港湾など、職場を転々としていた。
平成六年、二十六歳の時に瀬戸凪沙と入籍。三十歳で古物商を開業するも離婚と同時に廃業していた。
平成十二年の九月に瀬戸凪沙を追って現在の住所に移住。以後、現在の住所である天山一丁目のアパート「まひる荘」に住んでいた。
生活はかなり荒れていたようで、就労は長続きせず、近隣のパチンコ店へ頻繁に出入りする姿が目撃されている。
また、表向きは精神を病んで、生活保護を受給していたが、家宅捜索で、別名義の口座に毎月二十万円前後の入金が確認されており、不正受給の疑いも出ている。
《……クズぞなもし》
宇多津亮の経歴を聞いた美柑の正直な気持ちだった。
「現在、京都、和歌山、岡山、愛媛などで、組織的な強盗事件が相次いでおり、それに伴う死者も出ている。警察庁は広域合同捜査本部立ち上げを視野に動いている。本件が一連の事件と関係があるかは不明であるが、未解決の事件と繋がっている可能性は十分に考えられる。まずは二十五年前の事件の概要と、当時の捜査資料を基に、未解決事件専従捜査班から説明をお願いしたい」
いなかっぺ……こと伊予勝平愛媛県警捜査一課長が、声を張り上げた。
《普段のへらへらしたしゃべり方と、全然違うぞな》
美柑は、はじめて見るキリッとした勝平に、少し驚いた。が、彼の評価は最低のままである。




