第六章「それでもうちは専従捜査官ぞな(七)」
(七)
「結婚して、帰る場所がある人間には、どこか余裕がある。ほんで、帰る場所のない人間は、その余裕に引かれてしまうんや、と」
桔平は、そこで少しだけ言葉を切った。
「それで?」
「彼は、真剣やったと言うてました。けど、俺からしたら『順番』が違うんです」
桔平は、グラスの水面を見つめたまま続けた。
「本当に凪沙さんのことを思うとったんやったら、まず離婚するべきでした。そうしてから、凪沙さんに会いに行くべきやったんです」
弥生は、黙って桔平を見ていた。
「そうしていたら、凪沙さんも……彼の言葉を、信じられたんやないかと思います」
桔平の話に美柑は感動した。ふと横を見ると、香も頬を赤らめて見とれていた。
《なんぞな。その乙女の様なときめいた顔は……》
と、美柑は胸の内で香に抗議をした。
「こういう場合、何かあれば帰る場所のある方は、元の鞘に戻ろうとします。けど、甘い言葉を信じた方には、戻る場所がない。突然の別れの言葉に戸惑い、心の置き場を失って泣きながら彷徨うしかない。現に彼女は二度もそれを経験していた」
「宇賀田さん……」
波華まで、桔平の言葉に酔いしれていた。
「そやし、彼女は最後の一歩が踏め出せなかったんやないかと思います」
グラスの氷をならしながら、桔平はそう言った。
《桔平兄ぃ、もういいぞな。神楽ちゃんに言いつけてやるけん》
美柑は、香や波華が送る恋の波動に対して、勝手にヤキモチをやいた。
《うちも負けへんぞな》
気を持ち直して美柑は、最初に見せた漫画の話を切り出した。
「この漫画には、既婚者の先生を好きになった女の子が出てきます」
と言って、漫画をテーブルの上に置く。
「この漫画は、出版社の新人漫画賞で大賞を取った作品やけん」
「……恋結び……夢乃凪」
波華が、タイトルと作者名を言葉にした。
「はい。タイトルは『恋結び』。作者名は、夢乃凪。凪沙さんが高校三年生の時に使っとったペンネームぞな」
「凪沙の夢じゃけぇ」
弥生が、原稿のコピーを持ち上げて、もう一度読み出した。
「この漫画には、先生のネクタイで首を吊ろうとする女の子が描かれとります」
美柑は、弥生が読み終えるのを待たずに話し出した。
「そして二十五年前の船の上で、凪沙さんは黒田啓輔のネクタイを首に巻いとりました」
「え? 漫画と同じことを……。じゃあ、凪沙姉ちゃんは、自分で死のうとしたんですか」
波華が、涙を浮かべながら訊いてきた。
「そこは、うちらにも断言はできんのよ。相手の奥さんが、凪沙さんを止めようとした。その時にもみ合いになって、凪沙さんは海へ落ちた可能性が高いんぞな。殺そうとして突き落とした、とは言い切れん」
美柑は肯定とも、否定ともとれる言い方をした。
「馬鹿な……子じゃ」
弥生は、涙を流しながらそう言った。
「刑事さん。さっきあんたは、相手の男は真剣じゃったと言うた。それに間違いはねぇんじゃな」
弥生が桔平に投げかけた言葉は、ただ、そうであってほしいという願いにも、美柑には聞こえた。
「はい。そうです」
桔平は、振り向きもせず、あっさりと認めた。
しかし、桔平がなぜこちらを見ないのか、美柑は不思議に思った。
「ただ、彼の本気が、凪沙さんを幸せにできたかどうかまでは分かりません。あの転落がなかったとしても、二人がその先、ほんまに幸せになれたかどうか……そこまでは、俺には分からへんのです」
「ちょっと宇賀田警部補……」
席から立ち上がり、桔平のそばへ行こうとした、その時だった。
「俺に触るな……」
と言う言葉で、美柑は察した。
《たぶん、凪沙さんが傍におる……》
そう思った瞬間、理由の分からない悲しみと苦しさが、美柑の胸に流れ込んできた。
ただ怖い、という感情ではない。
「桔平兄ぃ、苦しいぞなもし」
そう言って、美柑は倒れそうになる。
「え? こら、美柑――」
寸前で美柑を支えた桔平をみた美柑はその瞬間、勝ちを確信した。
「やったな、お前」
「グフフーッ。勝ったぞな」
といって美柑は立ち上がると、弥生の後ろに立ち、抱きしめた。
「ありがとう……ママ」
「ごめんね……」
その声を聞いて、弥生は涙を抑えられなくなる。
その次に、波華を抱きしめて、
「波ちゃん、綺麗になったね……」
と言った。
「……その呼び方、凪沙姉ちゃんしか知らん」
と言って、波華は顔を伏せた。
ただ、こういう怪異が苦手な香は、目を伏せた。
「この写真と、原稿のコピーをもろてもええですか?」
弥生が美柑に訊ねた。
「はい。そのつもりで持ってきたんぞな」
「……ありがとう」
波華が声を振り絞った。
美柑は、泣いている二人にどんな言葉をかけたらいいのか、見当もつかなかった。
弥生は、もう一度凪沙の写真を手に取って、
「本当に馬鹿な……子じゃ。なんで帰ってこんかった……」
「婆ちゃん。この凪沙姉ちゃんの写真、店に置いとこうや」
波華が弥生の袖を掴んだ。
「そうじゃな……あの子が……三十七年ぶりに、やっと帰ってきたんじゃけぇ。泣いとる場合じゃねぇなあ」
弥生は凪沙の写真を胸に抱き、
「お帰り……凪ちゃん」
と、何度も呟いた。
花吹雪を出た三人は、桔平の「肉が食いたい」という要望に応えて、香が「ここでええじゃろ」と、倉敷駅南口から近い『焼肉・和牛の匠 倉敷本店』へ、美柑と桔平を案内をした。
焼肉を頬張りながら、美柑はオレンジ色の手帳を開いて、
「この後の予定は、倉敷14:07発 → 新倉敷14:16着 → 新倉敷15:02発 → 新山口16:55着やけん。その後、ビジホにチェックインするぞな」
と、美柑がそう説明すると、桔平は肉を焼く手を止めずにうなずいた。
「本部への挨拶や、長門屋の女将との面会は、明日じゃ。な・の・で」
と、ビールのジョッキを抱えて、「かんぱーい!」と言ってはしゃいだ。
美柑が、花吹雪での話を引きずって、無理にはしゃいでいるのは、誰が見ても分かる。
そんな美柑を桔平と香は、見ない振りをした。
「この肉とんなよ」
と美柑に言うと、桔平はすぐにジョッキを飲み干し、おかわりを頼んだ。
美柑の隣に座っている香は、本部まで車の運転があるので、ウーロン茶で我慢してした。
「香さんも一緒に来ればいいのに」
「行きたいんは山々なんじゃけどなあ。こっちの仕事がようけ溜まっとるけぇ、抜けられんのよ」
香はやれやれというように首を振った。
「美柑ちゃん」
不意に香が真顔になって、美柑を見る。
「なんぞな」
「弥生さんと波華さんに抱きついたとき……見えたん?」
香は、少し怯えた表情になった。
「ん? うちはそがいなことはしとらんけん」
美柑は平然とした顔で答えた。
「え? 覚えてないん?」
「うちは、漫画のコピーや、写真を渡すために持ってきたって言うただけやけん」
「でも、桔平さんも見てたよね」
と香が、桔平に訊いた。
彼は珍しく真顔で、美柑を睨むように言う。
「そやで。お前、忘れたんか?」
「え?」
桔平の目を見て、美柑はドキッとした。
「俺は『この肉、取んなよ』と、確か数秒前に言うた筈や。そして……お前が「いま」箸で摘まんどる肉は何や?」
「ロースぞなもし」
と言って、美柑は肉をタレに漬けて、頬張った。
「ふうっ。めっちゃ旨いぞな」
その瞬間、桔平は「ああっ」と声を漏らした。
楽しみにしていた肉を美柑に食べられ、心底悲しそうな顔をしている。
けれど美柑は、そんなくだらないやり取りに、少しだけ救われていた。
《桔平兄ぃは、ほんまに締まらんぞな》
そう思えることが、本当にありがたかった。
真実を告げることは、思っていたよりずっと重いんだ――。
今日、美柑はそれを知った。




