第六章「それでもうちは専従捜査官ぞな(六)」
(六)
翌日、約束の時間である十時より三十分早く「花吹雪」に到着した。前回は時間こそ守れたもののギリギリで、笠岡弥生を待たせてしまったお詫びもある。店の扉を開けると奥のテーブルにはすでに弥生の姿がある。
「年寄りの朝は早いんじゃけえ、気にせんでつかぁさい」
と、弥生が言ってくれた。
前回は弥生の息子の康平が同伴していたが、今回は孫の波華が一緒に話を聞くために弥生の隣に座っていた。
桔平はカウンター席に座り、美柑と香がテーブルの椅子に腰を下ろした。
美柑は、改めて店を見渡した。柔らかい照明に照らされて、年季の入ったカウンターや壁の色が、心を落ち着かせてくれている。
「約束、守ってくれてありがとうなあ。あの子がそのあと、どねぇな人生を歩いたんか、聞かせてつかぁさい」
弥生は、にこやかな表情で、美柑と香に訊いた。
「はいぞな。まず――」
と言って、オレンジ色の手帳を開いた美柑は、
「二十五年前の凪沙さんの転落は、警察としちゃあ、事故として扱う方向になりましたけん」
と、彼女は警察官として毅然とした表情で答えた。
「どがぁしてそうなったんか、話せるところだけでもええけぇ、教えてつかぁさい」
弥生は、眼鏡を拭きながら美柑にせがんだ。
「そして、凪沙さんは最後に、京都の既婚男性と出会うたんぞな」
「……最後に、また……既婚者かね」
弥生が苦い顔をして、深いため息をついた。
「はい」
「あの子は、なんでそこばっかり歩いてしもうたんじゃろうなあ」
美柑と香は、何て返せばいいかを迷った。
「男の刑事さんはどがぁ思うんじゃ」
それを察した弥生は、桔平に質問した。
「俺も独身なんで、その気持ちは理解出来ません」
その答えに、美柑は思わず桔平を見た。
「ただ……うちの死にかけの……いや、うちの婆ちゃんが言うとったことを思い出しました」
「ほお。なんと仰っとったんじゃ」
桔平は、カウンター席で水の入ったグラスを見つめていた。
「結婚して、帰る場所がある人間には、どこか余裕がある。ほんで、帰る場所のない人間は、その余裕に引かれてしまうんや、と」
桔平は、そこで少しだけ言葉を切った。
「それで?」
「彼は、真剣やったと言うてました。けど、俺からしたら『順番』が違うんです」
桔平は、グラスの水面を見つめたまま続けた。
「本当に凪沙さんのことを思うとったんやったら、まず離婚するべきでした。そうしてから、凪沙さんに会いに行くべきやったんです」
弥生は、黙って桔平を見ていた。
「そうしていたら、凪沙さんも……彼の言葉を、信じられたんやないかと思います」
桔平の話に美柑は感動した。ふと横を見ると、香も頬を赤らめて見とれていた。
《なんぞな。その乙女の様なときめいた顔は……》
と、美柑は胸の内で香に抗議をした。
「こういう場合、何かあれば帰る場所のある方は、元の鞘に戻ろうとします。けど、甘い言葉を信じた方には、戻る場所がない。別れの言葉に戸惑い、心の置き場を失って泣きながら彷徨うしかない。現に彼女は二度もそれを経験してしまった」
「宇賀田さん……」
波華まで、桔平の言葉に酔いしれていた。
《桔平兄ぃ、もういいぞな。神楽ちゃんに言いつけてやるけん》
美柑は、勝手にヤキモチをやいた。
「別件で逮捕した被疑者の供述と……それから、これぞな」
美柑はそう言って、A4に縮小した漫画原稿のコピーを、弥生たちに見せた。
「凪沙さんが、高校三年生の時に描いた漫画ぞな」
弥生の手が、眼鏡を拭く途中で止まった。
「この漫画が、二十五年前の船で何が起きたんかを考える、大きな手がかりになったんぞな」
美柑は、弥生と波華が凪沙の漫画を読み終えるまで、待つことにした。
「別件の被疑者って、京都の……刑事さんが刺されて死んだ……事件ですか」
波華がそう訊いてきたとき、カウンター席にいた桔平が水を吹き出してむせた。
「……はい。あ、いえ、生きとりますけん」
美柑が桔平を見て否定したので、弥生は、波華が言う死んだ刑事が、カウンターにいる刑事だと感づいたらしく、
「警察のお仕事は、本当に危険なんですね」
しみじみと、言った。
「けど良かった。顔見知りでうちより若え人が死ぬるなんて嫌じゃけぇなぁ」
「そうぞな」
と美柑は相づちを打った。
だがここには、その凪沙のことを話に来ている。自分がこの後のことを話していいのか、美柑は疑問に感じた。
「……凪沙さんは、倉敷を出た後、水商売転々としながら山口県の湯田温泉にある長門屋で、住み込みの仲居として働き出したんぞな」
「そりゃあ、誰からの話かね」
「当時、同じ長門屋で仲居をしていた、女性の話ですけん」
そう言って、一枚の写真を弥生と波華の前に置いた。
「婆ちゃん、凪沙姉ちゃんだ」
置かれた写真を手に取った波華が、懐かしそうな笑顔で話しながら、それを隣にいる弥生に見せた。
古びた写真に映っている凪沙は、にこやかに笑っている――。
「おお、この顔。この顔じゃけぇ……ええ笑顔じゃ」
その写真を見た弥生のしわの刻まれた目元が、かすかに揺れた。彼女の頬を涙がこぼれるのを波華が、ハンカチで拭いてやる。
「この山口で、凪沙さんは出会うた男性と入籍したぞな」
美柑が、静かに話した。
入籍と聞いて、一瞬喜びかけた弥生の表情が強張った。
「けど、凪沙ちゃんは幸せにはなれんかったんじゃろ?」
「お察しの通りぞな」
美柑が手帳のページを捲りながら答えた。
「その男の人は、悪人やったとは言い切れんのぞな。けど、凪沙さんの人生を預かるには、弱すぎたんよ。凪沙さんは、ほんの少しでええけん、誰かに支えてほしかっただけやのに……その人には、それができんかったんぞな」
「『頑張る』言う言葉だけで、人ひとり幸せにはできんけぇな」
香もそれに同調した。
「はい……凪沙さんは、その『頑張る』いう言葉を信じたんやと思います。自分も一緒に頑張ったら、今度こそ幸せになれるんやないかって……そう信じたけん、踏ん張っとったんぞな」
美柑は、当時の凪沙の気持ちを、自分の感情を込めて話した。
ここで宇多津亮の話をすることもできた。けれど、彼もまた殺人事件の被害者である。何より、凪沙がその男とどのように暮らし、どのように傷ついたのかを今ここで語ったところで、弥生たちの心をさらに痛めるだけだと思った。
深いため息をつく弥生と波華の苦しそうな顔を見て、美柑は唇を噛んだ。
《凪沙さんの人生を、これ以上、傷口みたいに広げる話はせんぞな。宇多津亮のことまで、今ここで弥生さんたちに背負わせる話やないけん》
そう思った美柑は、宇多津亮のことには深く触れないことにした。
「そして、凪沙さんは最後に、京都の既婚男性と出会うたんぞな」
「……最後に、また……既婚者かね」
弥生が苦い顔をして、深いため息をついた。
「はい」
「あの子は、なんでそこばっかり歩いてしもうたんじゃろうなあ」
美柑と香は、何て返せばいいかを迷った。
「男の刑事さんはどがぁ思うんじゃ」
それを察した弥生は、桔平に質問した。
「俺も独身なんで、その気持ちは理解出来ません」
その答えに、美柑は思わず桔平を見た。
「ただ……うちの死にかけの……いや、うちの元気な婆ちゃんが言うとったことを思い出しました」
「ほお。なんと仰っとったんじゃ」
桔平は、カウンター席で水の入ったグラスを見つめていた。




