第六章「それでもうちは専従捜査官ぞな(二)」
(二)
洋子に何も告げずに家に帰ると、キッチンで彼女は、だいぶ前になくしたと思っていた私の魚釣り用のナイフを、持って泣いていました。その時私は直ぐに何が起きたのか理解しました。
「落ち着いて話なさい」
と促して、洋子から詳しい話を聞きました。
そして、洋子が言っていた、 近所の駐車場に行くと、車のボンネットが開いていて、その車にもたれかかるように、宇多津亮がうつ伏せに倒れていました。
車の周りを見ると、かなりの出血していることが分かりました。
ただ、奴は息をしてたんです――。
「大丈夫か?」
と私は、宇多津亮に声をかけました。
「大……丈夫な……わけない……やろが。何……言よん……な」
苦しみながら、宇多津亮は声を絞り出していました。
私は、これ以上苦しませるのも可哀想に思いました。
それに、このまま生きていられても困る。
「心配するな。すぐに楽にしてやる」
と言って、タオルで口を塞ぎ、宇多津亮の心臓にナイフを突き刺しました。
後悔――。
するわけないでしょう。凪沙を暴力で支配し、洋子の操まで奪った奴です。殺され手も文句言えないでしょう。
取り調べ室の雰囲気が、黒田の供述で冷えていくのが美柑にも分かった。
「のう先生。あんた、この供述の意味を分かって言うとるんか?」
山際が、黒田啓輔を睨んで確認した。
「もちろんです。仮に黙っていたとしても、洋子の供述でいずれ分かることですから」
山際は、一課の佐藤刑事を呼び寄せ、逮捕状の請求を急がせる。そして美柑は、佐藤と入れ替わるように、香と共に取り調べ室を後にした。
洋子の取り調べが続く、モニター室に戻ると、
「どうだった?」
柑奈が真っ先に訊いてきた。
「そりゃあ、見事なもんじゃったで。黒田啓輔、無事落としたわ」
香が、美柑の肩を叩き報告をする。
美柑は何か気恥ずかしさを覚えたものの、少し嬉しかった。
「そりゃあ、我が愛媛県警、期待の星ですからねぇ」
勝平も賞賛して、オーバーな身振りで義妹を自慢する。
《いなかっぺ。うるさいけん、黙っとれぞなもし》
美柑の胸に、怒りがこみ上げる。
「そっちは、どがいなっとるん?」
洋子の取調べの進み具合を柑奈に訊く。
「いま、桔平の話になってるわ。ちょうど昨日のところね」
と柑奈が、モニターを見ながら言った。
洋子は相変わらず落ち着いた表情で話していた。
刑事さんを殺すつもりだったのか、というご質問ですが……はっきりとした考えはありませんでした。彼には、本当に申し訳なく思っています。
ただ、私が何に怯えていたのか……。
いま考えても、よく分からないのは事実です。
主人の言うとおりにしたくなかったのかもしれません。
彼の話す言葉は、全て自分の地位を守ることにしか、私には聞こえてきませんでした。
私と結婚したのも、お祖父さまやお父様が築き上げた地盤を、引き継ぐだけの目的でしかなかったんです。その卑しい目的のため、私は人生を奪われた挙げ句に、母親になることさえできなかった。
なぜ、ナイフを刺したまま逃げたのかについては、なんと表現していいのか分かりません。
あのとき、ナイフを抜かなかった、ではなく、抜けなかったんです……。
誰かが、私の手首を強い力で掴んできました。
あまりの痛さに顔を上げると、長い黒髪の女性が、私の手首を離さずに立っていたんです。得体の知れない、その目の恐ろしさに、私はそのまま逃げ出しました。
「現場にそんな女性はいたの?」
柑奈は素早く美柑に訊いた。
「おらんぞな」
と、彼女は短く答える。
「長い黒髪の女……か。その話の信憑性はともかく、そのことで、桔平が助かったことは紛れもない事実だわ」
『桔平には、初代様が守ってくれてるから』
そう言っていた明菜の言葉を、美柑は思い出し、見えない初代様に心の中で手を合わせた。
《初代様。ありがとうぞなもし》
ふと香へ目を遣ると、真っ青な顔をして震えている。
「いな……勝平兄ぃ、凪沙さんはどうなるぞな」
「それは、君が答えを出すべきだと、僕はそう思うんだよねぇ」
勝平にしては珍しく、難しい顔で美柑の向き合った。
「そうね。感情論ではなく、専従捜査官としての答えをね」
柑奈も、勝平の意見に賛成する。
「専従捜査官として……」
「それと――」
勝平の目が光った。
「いま、いなかっぺと言おうとしたよねぇ」
《どがいして、そこに戻るんぞな》
美柑は、ほんの少しでも勝平を見直しかけたことを後悔した。
「プッ」
と、さっきまで震えていた香が思わず吹いた。
「難しゅう考えんでええんよ。美柑ちゃんが思うとることを、そのまま話したらええんじゃけぇ」
「うちは、洋子さんの言いよることが、ほんまなんやないかと思うとるんぞな」
美柑が、今の時点での考えを口にした。
「それはなぜ?」
柑奈が鋭い視線で訊く。
「宇多津亮じゃ」
彼の名前が出た瞬間、モニター室に緊張が走った。
「たぶん宇多津亮は、凪沙さんが転落したところを見とったんじゃないかと思うんじゃ」
「なるほどねぇ。彼の性格を考えると、その推論は一理ありますねぇ」
「そうぞな。もし洋子さんが凪沙さんを突き落としとったんなら、宇多津亮の性格からして、黙っとるわけがないんぞな。すぐ黒田啓輔を脅しにかかるはずやけん」
美柑は、必死に頭の中の考えを言葉に変えて訴えた。
「なるほどなあ。宇多津亮が二十五年も何もせんかったことが、逆に証拠になるんじゃ。美柑ちゃん、よう気づいたなあ」
香も感心したように頷いた。
「そうね。そう考えると、不慮の事故の可能性が高いわね」
柑奈も、賛同した。
「でも、凪沙さんの心までは、まだ辿り着けとらんぞな」
「まあ、二十五年も前なんだよねぇ。僕たち警察は、そこまで踏み込まなくてもいいんだよねぇ」
勝平は、優しく美柑を見て微笑んだ。
《ほやけん、あんたはいなかっぺなんじゃ》
美柑は、強い不満を覚えた。
このとき、美柑の勝平に対する評価は、地に落ちた。
――やがて、この日の洋子に対する事情聴取が終わった。
それと同じくして、桔平が集中治療室から一般病棟へ移ったという連絡が、きういから入った。
『お医者さんが、もう大丈夫やぁて言うとった』
「良かったぞなもし」
『死んだぁ言うて聞いたから……くそ。うちの涙を返せ(怒)』
「え?」
美柑はきういの真意を理解できなかった。急を聞いて、勝平の車でこちらに向かう際には、ギャンギャン泣いていたと聞いた。なのに送られてきたのは全然嬉しくなさそうなメッセージだった。
《きうい姉ぇの女心は読めんぞなもし》
これが、きういに対する美柑の正直な気持ちだった。
「きうい姉ぇは、嬉しゅうないんか?」
『それは……神楽様をやっと独り占めできるって、めっちゃ嬉しかったで』
「何を言いよるんじゃ。桔平兄ぃのことぞな」
このメッセージの既読はすぐに付いたが、返信はなかなか返ってこなかった。
「既読無視はいかんぞなもし」
と、催促のメールを入れた。
『(泣)』
しばらくしてから入った、きういのメールは短かった。
『めっちゃ悲しい(泣)』
これには美柑も感動した。そして、この一言の意味を深く考えた。
《そうじゃな。きっと、きうい姉ぇも心の中では……》
『神楽様ぁ(泣)』
もう……何も言うまい――。
と、美柑は心に決めた。ただ、彼女としては、桔平が一般病棟へ移ったという知らせに、安心したのと同時に、素直に嬉しさがこみ上げていた。




