第五章「真実は苦いぞな(八)」
(八)
いつもなら泊まっていくのに、その日の宇多津亮は突然、帰ると言いました。
帰らないでと言って、引き留めても仕方がない……。
「旦那にバラされたくなかったら、金は今までどおり頼むきんの」
そう言われたとき、彼の本性を見た気がしました。
その時、二十五年間保っていた心の均衡が、私の中で崩れていく感じがしました。
宇多津を刺したことに、大した理由などありません。
「明日、お前の旦那と会うことになっとるんや。二十五年も嫁に裏切られとったと知ったら、どんな顔するんやろな。見ものやのう」
バラされたくなかったらと、脅しておきながら、私とのことを主人に話す気でいる。
「まあ、あいつも俺の女を奪うたんやきんのう。二十五年かけて、ようやくあいこになったわ」
そんなことまで、笑いながら言いました。
結局……こいつも啓輔と同じでした……
あのとき、彼の背中がとても小さく見えたのを覚えています。私は、手に持っていたナイフを強く握りしめて、あの男の背中に向かってぶつかるようにして……。
気がつけば、倒れている彼をぼうっと眺めていました。
ナイフは、主人がキャンプや釣りに行くときに使っていた物です。二十五年前に啓輔の道具箱から盗み出して、ずっと持っていました。
最初から彼を殺すつもりだったのか――ですか。
どうでしょうか――そうだとも言えるし、そうではなかったとも言える。ただ、この男を黒田の家の近くで殺せば、啓輔はどう思うだろう……。
「いい気味だわ……」
これが、私の素直な気持ちです。
弁護士の妻が二十五年も他の男と浮気をして、その相手を、痴情のもつれで殺してしまった……。
――笑えませんか?
だって、そうでしょう。結婚してから二十七年もの間、旦那に触れてもらえない女……。愛してもらえなかった女の積み重なった恨みなんです。
「裁判の時、私は笑いながら話してやる。結婚してから、お前が私に『しなかった』全てを。お前はそれを、傍聴席で聞いていればいい」
風俗に行くぐらいなら、私も我慢できたんでしょうが、啓輔の場合、浮気ではなく「本気」でした。
探偵から戴いた啓輔の浮気写真を見るたびに、私の心は歪んでいった。
私の努力が足りないから……。
私に魅力がないから啓輔が他の女へいくんだ……。
そう毎日、泣きながら自分を責め続けていました。
なぜナイフを盗んで持っていたのか――。
それは、自分を責め続けた女が、最後に辿り着いた答えだったからです。
*
そう言って、洋子は静かに袖をまくった。
差し出された腕には、多くのためらい傷が残っていた。
モニター室の美柑は、洋子の話を聞きながら、凪沙が描いた漫画を思い出していた。
当時十八歳だった凪沙は、愛し、信じていた担任の先生の奥さんに会いに行った。その結果、担任に切り捨てられた。
漫画の中の主人公は、そのことに絶望し、担任のネクタイを盗み出して自分の首に巻く。そして、校舎の屋上から飛び落ちる。
それは、救いのないバッドエンドの物語だった。
そして凪沙は十七年後に、それを実行しようとした。
《いや、それは違うぞな》
美柑は考えた。
確かに凪沙は、雨の降る船の上で、黒田啓輔のネクタイを首に巻き、自ら締めた。しかし、洋子のためらい傷がそうであるように、人は本当に死ぬ寸前になると、どうしても生きようとしてしまうのではないか。
「わからんぞな」
思わず口に出てしまった。
「どうしたん?」
と香が聞いてきたので、自分の中にくすぶっていた疑問をぶつける。
「たぶんじゃけど、黒田啓輔も既婚者じゃったからじゃねぇんかな」
と香は、モニターから美柑へ目を移して言った。
美柑は、これまで追ってきた凪沙の半生を思い返して、
《確かにそうじゃ》
と、思った。
凪沙は、児島誠司の甘い言葉を信じた。幸せを夢見て倉敷まで行ったのに、そこにはすでに「嫁」がいた。
「嫁とは離婚するから」
という「嘘」を信じて待ったが、児島誠司は凪沙ではなく妻の恵美を選んだ。
傷つき、絶望した凪沙は、松山へは戻らず、山口へ移り住む。
凪沙は、椋梨慎吾の「頑張るから」という言葉を信じて、懸命に彼を支えた。だが、彼は働こうとせず「嘘」で凪沙を苦しめた。
そんな凪沙の心につけこんだのが宇多津亮だった。
亮は、洋子に見せていた紳士的な態度や言葉で凪沙の心の中に入り込んだ。しかし椋梨慎吾と離婚してまで信じた宇多津亮は、香川での暮らしが始まると、宇多津亮は態度を豹変させた。
そんな状態の時に、黒田啓輔と出会った。
「黒田啓輔の言葉を、信じられんかったんじゃろ」
香はそこで目を閉じて話を続ける。
「これは憶測に過ぎんけど、黒田を犯罪者にしたかったんじゃねぇんかな」
と言った。
ただ、そこに洋子が飛び込んできたことによって、運命の歯車が大きく歪んでしまったのではないか、と美柑は思った。
取り調べ室には、しばらく沈黙が続いていた。
「相良警部補から何か質問はありますか」
と神楽が、同席している凜に訊いた。
「私からは、なぜ宇賀田警部補を刺したのかを聞きたいです」
と言い、洋子へ視線を向ける。
「別に、宇多津亮を殺したのと同じです」
「そんな理由で、あなたとはなんら関係のない刑事を刺したということですか」
「はい」
何のためらいもなく話す洋子をモニター室で見ていた山際万作が、
「この女、目がいっとるな」
と、誰にでもなく言った。
「宇多津亮を殺したあと、家に戻った私は、ナイフを握ったまま泣いてしまいました。そこに主人が帰ってきました」
「黒田啓輔弁護士ですか?」
「はい。彼は、泣いている私とナイフを見て、事情を察したみたいです」
「黒田さんは、何か言いましたか?」
「主人は、私と宇多津亮との関係を知っていたそうです」
「続けてください」
「そして、そのナイフを持って、出て行きました。少しして帰って来た後、『いいか、このことは誰にも話してはいけない。黙っていれば、警察も真相にたどり着けないから』と言ってきました」
どういうわけか、洋子の声が震えていた。
「言っている意味は分かりませんでしたが、洗ったはずのナイフの刃に、また血が付いていました」
その言葉に、取り調べ室はおろかモニター室の全員がざわついた。
「その言葉通りじゃったら、とどめを刺したことになるぞな」
と美柑が言った。
「黒田啓輔は、まだここにおるんか?」
と、山際が若い刑事に訊いた。
「はい、会議室に」
「すぐに取調室へ移せ。任意で事情聴取や」
そう言って、山際は立ち上がった。
「伊予君も一緒にどうや?」
と、勝平に訊く。
「お気遣い戴き感謝します。それならば、二十五年前の事件を追ってきた、我が愛媛県警が誇るホープと岡山県警の木尾君を同席させてやってください」
と、美柑の背中を押して山際に申し入れた。
《いなかっぺ、どさくさに紛れてうちに触るんじゃないぞなもし。それに話がくどいんじゃ》
背中を触られて、美柑は胸の内で文句を言った。
ただ褒めただけなのに、セクハラ扱いされた勝平にしてみれば、迷惑な話である。
「ほお、それは面白そうやな。ほな、入りの聴取は二人に任せようかの」
山際万作は、不気味な笑みを浮かべている。その顔を見た美柑と香は寒気がした。
ただ、万作の考えは間違っていない。
いきなり捜査一課長が前面に立てば、黒田も警戒してしまう恐れがある。洋子の自供内容を知らない黒田へは、二人を前に出すことで、二十五年前の凪沙の話だと思って貰った方がいいと判断した……らしい。




