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専従捜査官-令和の坊ちゃん編-  作者: 北島 将


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第五章「真実は苦いぞな(七)」

(七)

「離して!」

 そう言って、彼女は私を突き飛ばしました。私は壁に背中を打ちつけました。その弾みで彼女は手すりの方へよろけ、濡れた甲板で足を滑らせて、落ちてしまったんです。 

 慌てて彼女が落ちた場所まで駆け寄り、下を覗き込みました。けれど、見えたのは黒い波だけでした。彼女の姿も、声も、何もありませんでした。

「……どうしよう」

 私はその時になって、無性に怖くなったのを覚えています。

「警察に……」

 咄嗟に携帯電話を探しましたが、船室に置き忘れてきたことに気づきました。

 雨脚が強まり、私はたちまち濡れていきました。

 私は、彼女の行動を見て、止めに入ったことを後悔しました。 

 警察に届け出れば、啓輔の後をつけていたことも、私があの場にいたことも知られてしまう。啓輔は私を疑うだろうと、その時の私は考えました。

 もちろん彼女を突き落としてはいません。でも「私が」原因であることは紛れもない事実です。しかも彼女は、首に啓輔のネクタイを巻いたまま落ちたんです。

 私は、顔を打つ雨を見上げて「もう、どうでもいいや」と考えました。


 結婚して二年――。

 一度も……私は「愛されている」と思えたことがなかった。

 一度も……私に振り向いてなどくれなかった。

 

 私は、彼に愛してもらおうと私なりに考えて、二年間毎日努力をしてきたつもりです。 でも彼は、彼女を選んだ……。

 私はもう一度、彼女が消えた海をのぞき込みました。

 なぜか暗い海が、温かく感じたのを覚えています。

 海が私の苦しみをすべて包み込んで、救ってくれる――。

《きっと彼女も苦しかったんだろうな》

 そんなことを勝手に思いながら、手すりを乗り越えようとしたとき、後ろから強く抱き止められました。

 私は必死で暴れたのかもしれません。

「落ち着かんか。アホなことすな。こっち来い」

 という訛りの強い声がしました。

 それからしばらくのことは、記憶にありません。覚えているのは彼の船室でタオルを頭から被って、毛布を掛けられた時からです。

「どんな事情があるんかは知らんけど、早まったらいかんぞ」

 そう言いながら彼は、自動販売機で買ってきた缶コーヒーをあけ、私の手に握らせました。

 そのコーヒーがあまりに温かくて、つい泣き出してしまいました。彼は、私が泣き止むまで、何も話しませんでした。

 それが無性に嬉しかった――。

「落ち着くまで、ここにおったらええきん」

 そう言って、彼は気を遣って船室から出ようとしました。その時、私は彼にすがりついていました。

 いまも、あのときの私の行動は軽率だったと思いますが、啓輔の彼女を見る目を思い浮かべて、どうなってもいいと思ったのかもしれません。

 彼と関係を持ってから、啓輔に対する感情もなくなったわけではありません。

 ただ、何度浮気されても以前ほど気にならなくなりました。 

 私は、宇多津亮に求められるまま、関係を続けたのです。ただ、恋愛感情はありません。

 主人に振り向いてもらえない悲しみを、彼に求めていたのだと思います。

 啓輔のことは、今でも本気で愛しています。それでも、体は宇多津亮を求めてしまう。

 自分の心が歪んでしまったのだと、そう思います。

 でも、私を歪めたのは啓輔です。

「私の寂しい思いを啓輔も味わえばいいんだ」

 と、宇多津亮に抱かれるたび、私はそう思っていました。


「それで、毎月二十万円を宇多津亮さんに払っていたのですか」

 洋子の言葉は、質問している神楽だけでなく、モニター室で聞いていた美柑の心にも深く届いていた。

『私は、ただ失いたくないから、前に進めないだけかも』

 と言った神楽の気持ちを、美柑は桔平の命が危なくなったときに痛いほど理解した。

《でもうちは桔平兄ぃ命ぞなもし。絶対に浮気なんぞせん》

 そう思える自信がどこから湧いてくるのか……。

 ただ、洋子の寂しさは少しわかる気がした。

「はい」

 洋子は落ち着いた表情で答えた。

「求められるまま……ですか?」

「そうです。お金で彼の心をつなぎ止めることが出来るのであれば……」

 そう言った洋子の目は、寂しそうだった。

「その彼――宇多津亮さんは、瀬戸凪沙さんの前の元夫だったことは知っていましたか?」

 神楽の質問に、洋子は驚いた表情を浮かべ、視線を落とした。

「知りません……でした」

 神楽は、警察で調べた宇多津亮の情報の一部を洋子に話した。亮が、凪沙に日常的に暴力を振るっていたこと。多額の保険金の受取人をめぐって、遺族と揉めていたことなど、彼女が知らない、宇多津亮の素顔を話す。

「私には、そういう姿は見せたことがありません」

 と言って、信じられないといった表情をした。

「そうですか。では、宇多津亮さんは、あなたには別の顔を見せていたのかもしれませんね」

 神楽はそこで一拍置いた。

「本気で、あなたを愛していたのかもしれません」

「そう言われましても、私にその気持ちはありません」

「では、なぜ宇多津亮さんを殺したんですか?」

 神楽が率直に訊いた。

 モニター室にいる全員の顔に緊張が生じる。

「あなたが宇賀田警部補を刺した際に使用したナイフを調べた結果、ナイフの柄と刃の境目に残っていた血痕が宇多津亮さんのDNAと一致しました」

「それは……」

 一瞬、洋子は黙って視線を反らしたが、意を決したように顔を上げて、

「彼が私たちの関係を切ろうとしたからです」

 といった。

「関係を切る?」

「はい。お恥ずかしい話ですが、彼はいつものように私を抱いた後に、『俺も歳やきん、もう終わりにせんか』と言ってきました」

「続けてください」

「こんな歳になって、そういった関係を続けていたと聞いて、刑事さんも引いたんではないですか?」

 逆に神楽に洋子が質問した。

「はい。少し……」

 神楽は、率直な感想を言う。

「私もあなた位の年齢の時はそう思っていました。普通なら孫がいてもおかしくない年齢ですもの」

「刑事さんのお二人に好きな人はいますか?」

 神楽と凜は、お互いの顔を見た。

「はい。います」

 と洋子を見て神楽は言った。

「もし良かったら、どんな人か教えてください」

 と洋子が無理な注文をしてきた。凜は、

「どうぞどうぞ」

 という手振りを見せて、神楽を促した。

 神楽は、少し考えた。そして

「そうですね。仕事にも、生きることにも、いつも文句を言わず、私だけを見てくれて、誠実で明るい人です」

 その話を聞いて誰を思い浮かべたのか、凜も不謹慎ながら吹き出した。

「あはは。桔平の真逆やな」

 モニター室の山際万作が笑ってしまった。

 それによって、美柑たちも息がつけた気になれたのがありがたい。

《神楽ちゃん。正直過ぎるぞな》

 美柑は、神楽の気持ちは知っているので複雑ではあったが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。

「でも、その人はいま病院にいます」

「……」

「あなたが、彼を刺したからです」

と言い、神楽が洋子を刺すように見る。

「……ごめんなさい」

 洋子は、消え入りそうな声で頭を下げた。

《謝っても許さんぞな》

 美柑はモニターに映る洋子を睨んだ。その時、桔平の看護に行っているきういからメールが入った。

『桔平が……』

 という短いメッセージに、美柑は嫌なことを考えてしまった。

「桔平兄ぃが、どがいしたんぞなもし」

 と返信したが、なかなか返ってこない。

 美柑は焦った。胸の鼓動が早くなっていく。

 こういうときの一秒は、長く感じるものだ。

「どがいしたんぞな」

 もう一度、急かすように送信した。


『生き返りよった……』


「当たり前じゃ。昨日そう言うたじゃろ」

 そのメールを、香たちにも見せた美柑は、胸をなで下ろす。

 その間、取調室には短い沈黙が落ちていた。

「話を戻します」

 神楽が静かに言った。

「はい」

「宇多津亮の殺害について、話してください」

 再び洋子は、静かに話し出した。



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