第五章「真実は苦いぞな(五)」
(五)
午後九時半過ぎに始まった手術は、午前一時四十分頃、ようやく終わった。
手術室のランプが消えた瞬間、美柑と神楽は同時に顔を上げた。
手術室の扉が開く。
桔平がストレッチャーに乗せられて出てくる。
顔色は悪い。酸素マスク、点滴につながれた姿が痛々しい。
心電図モニターが動いて、彼が生きている事を教えてくれていた。
四、五人の看護師が周囲を囲む。
美柑と神楽はもちろん、同期の刑事たちも近づこうとするが、看護師に「すみません、通ります」と制される。
ほんの一瞬だけ、桔平の顔が見えた。だが、いつもの軽口を叩く気配など、どこにもなかった。
桔平は、そのまま集中治療室へ運ばれていった。
やがて、医師が手術室から出てくる。
「先生、桔平兄ぃは……!」
美柑が駆け寄る。
神楽も、その隣で息を詰めていた。
「手術は終わりました。宇賀田さんは、このあと集中治療室で経過を見ます」
医師は慎重に言葉を選びながら、丁寧に説明した。
「幸い、主要動脈の断裂はありませんでした。ただ、刃先が腹腔内の血管と臓器表面を傷つけており、出血量が多かった。まだ安心できる状態ではありません。これから集中治療室で管理します」
医師は、自分の周りに集まり、真剣な顔で桔平の容態を訊いてくる刑事たちを見渡した。
「ただ、二十四時間は、慎重に見ていく必要があります」
その言葉に、誰もすぐには返事ができなかった。
「まあ、わしらがここにおっても何も出来ん。あいつを信じて帰ろうや」
その一言で、張りつめていた刑事たちは、ようやく動き出した。誰もが何度も集中治療室の方を振り返りながら、渋々と病院を後にしていく。
「私たちも、一度戻りましょう」
神楽が静かに言った。
「嫌じゃ。うちはここにおる」
美柑は、首を振った。
ここにいても何も桔平の為に出来ない。わがままな事を言っていることは、彼女も重々
理解している。だが、桔平の傍にいたいという気持ちを抑えられないのも、正直な気持ちだった
「桔平兄ぃが目ぇ覚ますまで、ここにおるぞな」
神楽は何も言わず、美柑の肩に手を置いた。
「でも、香さんもいるから帰らないと」
「そうじゃった。わかったぞな」
美柑は頷いた。ちょうどその時、上京署から香が帰ってきた。
「桔平さんの容態は、どうなん?」
香が息を切らしながら訊いた。
「幸い、主要動脈は切れとらんかったみたいじゃ。けど、集中治療室ぞな」
美柑はそう答えながら、もう一度だけ集中治療室の方を見た。
「香さん、黒田洋子の様子はどうですか?」
「最初は自殺のおそれもあるけぇ、留置担当に監視を強めてもろうたんじゃけどな。不思議なくらい、落ち着いとったわ」
と、香が疲れた顔でため息をついた。
警察官という仕事が、常に危険を伴うものだということは聞いていた。
だが、まさか自分の目の前で、そんなことが起きるとは思っていなかった。
まして、それが桔平だった。
その事実が、美柑の胸に重くのしかかる。
――ただ失いたくないから、前に進めないだけ。
昨日、神楽が言った言葉が、今さらのように胸に染みた。
――失いたくない。
その一言が、こんなにも怖いものだとは知らなかった。
「うちが悪いんじゃ……」
美柑は、震える声で呟いた。
昨日の焼肉屋でのやり取りが、ふいに頭の中へ蘇る。
「……こら、美柑」
「なんぞな」
「その肉は、俺が大事に育てたやつや。手ぇ出すなや!」
「桔平兄ぃは昨日うちの海老をとったぞな」
「過去の話はええねん。いま、このハラミの所有権を言うとるんや」
「過去を掘り起こすんがうちの仕事じゃ」
「うちが、桔平兄ぃのハラミを食ったけん……」
昨日の焼肉屋でのエピソードを思い出して笑おうとした。
今日も今宮神社で、お参りを主張する桔平に、
「あぶり餅がたべたいぞなもし」
といってねだった。
「お前、マジで太るぞ」
と言われてふくれたことも……涙と一緒に、思い出が次々と溢れ出してきた。
美柑が言っている事は、自分でも違うと分かっている。
桔平はそんなことを引きずる男ではない。
分かっているのに……涙だけが止まらなかった。
何かのせいにしなければ、胸が押し潰されそうだった。
香が、泣いている美柑を見かねて、そっと彼女を抱きしめた。
「大丈夫じゃ……絶対、大丈夫じゃけぇ」
「そうです。昨日寝ていませんでした。きっと今は、その分を取り返そうとしてるはずです」
神楽がそう言って、美柑の涙を拭いてくれた。
「……ほんとぞな?」
美柑が、涙に濡れた目で神楽を見る。
「はい」
神楽は、静かに頷いた。
「桔平ちゃんは、そういう人です」
神楽が優しく微笑んだ。そして集中治療室の方を見て、
「いつも文句を言いながらも人の前に立って……いつも怪我する人です」
美柑は、小さいときに助けに来てくれた時の、顔中血だらけの姿を思い出した。
翌日の六月十五日・午前九時。黒田洋子は宇賀田桔平に対する殺人未遂容疑の取調べのため、留置されていた上京署から護送された。
取調室で背筋をピンと伸ばして座っている。髪はきちんと整えられ、薄い色のブラウスにも乱れはない。むしろ、これから茶道の稽古にでも向かう奥様のように見える。
取調べ監督用のモニター室で洋子の姿を見た美柑は、
《どこからどう見ても、人を刺すような人には見えんぞな》
というのが、第一印象だった。モニター室には、美柑と香の他に、山際と久世。その横に愛媛県警捜査一課長の伊予勝平と柑奈が隣席していた。
「いやぁ、山際さんすみませんねぇ。我々も同席させて戴いて」
勝平が山際に礼を言う。
《いなかっぺは何しに来たんじゃ?》
と、美柑は思った。
タクシーを拾って美柑たちが神社に戻ると、時間はすでに午前二時半を回っていた。そこへ見慣れた「愛媛ナンバー」のワンボックスが、勢いよく駐車場へ入ってきた。
停車と同時に車のドアが勢いよく開き、柑奈が飛び出してきた。
「美柑!桔平の容態はどうなの?輸血は?助かったの?」
と柑奈に、矢継ぎ早に質問されて、
「柑奈姉ぇ、うるさいぞな。夜中じゃぞ」
と言って、柑奈を落ち着かせた。
「美柑ちゃんの言う通りですよぉ。柑奈君」
エンジンを止めて、勝平が降りてきた。
「いな……勝平兄ぃ、きうい姉ぇも来とるんか?」
「はい、道中泣きじゃくっていたんですけどねぇ。京都に入る前に泣き疲れて、今はぐっすりとおやすみなさってますねぇ」
勝平は、後部座席を親指で示した。
美柑がそっと車内を覗くと、きういは涙の跡を頬に残したまま、子どものように眠っていた。
「きうい姉ぇ……何しに来たんじゃ」
美柑が小さく呟く。
「いいじゃないですかぁ」
勝平が、いつもの調子で肩をすくめた。
「彼女も、宇賀田桔平いう男に人生を狂わされた一人ですからねぇ」
と、意味深なことを言った。
《きうい姉ぇは、神楽ちゃん命ぞな》
と、美柑がそんなことを考えていると、若い刑事が山際の傍へやってきた。
「課長」
「おお、なんや」
と訊く山際の耳元で囁いた。
「何やて……すぐ行く言うといてや」
「どうかされましたか?」
勝平が山際に訊いた。
「黒田啓輔が弁護士資格をちらつかせて接見を申し出とるそうや」
「ご一緒させて戴いても宜しいでしょうか」
「ほな、一緒に行きましょか」
といって、山際は勝平と若い刑事の三人でモニター室を出た。
それと同時に、神楽と相良凜の二人が取調室に入ってきた。
「京都府警本部捜査一課、大月神楽です」
神楽は、洋子の目をしっかりと見て挨拶をした。
「同じく、相良凜です」
モニター越しに見る美柑は、昨日病院で神楽の言葉を思いでした。
『元カノです』
その言葉は、まるで美柑の心に刺さる棘の様に、妙に胸に残っていた。




