第五章「真実は苦いぞな(四)」
(四)
午後七時五十分。
美柑と桔平は、黒田啓輔の自宅付近の路地で、神楽と香の到着を待っていた。
桔平と美柑は京都の味を求めて市内を歩き、神楽と香は美術館や四条周辺の店を回った。 事件のことを忘れたわけではない。
だが、黒田啓輔からの連絡が来たのは午後五時を回っていた。
「本部に寄ってから、そちらに向かいます」
という神楽からのメッセージを桔平は美柑に告げる。
「ほな、待たすんも相手に悪いから、俺らだけでが先に行こか」
と、桔平が振り向いた直後だった。
ドンッと、誰かとぶつかったような音と同時に桔平が「ぐっ」と低く呻き、腹部を押さえた。
「桔平兄ぃ、どがいしたんぞな」
美柑が声をかけるのと同時に、桔平の膝が崩れた。
その向こうで、黒いフードを被った人影が路地の奥へ走り去っていく。
「桔平兄ぃ!」
美柑は叫び、倒れかけた桔平の傍へ駆け寄った。
「桔平兄ぃ、返事して!」
美柑は桔平の手をどけようとして、息を呑んだ。
掌に、ぬるりとした赤いものがついた。
《血……》
頭が真っ白になりかける。
けれど、次の瞬間、美柑は歯を食いしばった。
《泣くな。うちは警察官ぞな》
震える指でスマホを取り出し、桔平の身体を支えながら、神楽へ電話をかける。
「早く……早く出て」
その時間は数秒だとしても、美柑にとって長く感じた。
『もしもし。美柑ちゃん何かあったの?』
通話に出た神楽の声は、いつになく荒れていた。息が切れている。
「神楽ちゃん! 桔平兄ぃが刺されたぞな! 黒田さんの家の近くの路地じゃ! 救急車、すぐ呼んでつかぁさい!」
神楽の呼吸が一瞬止まったかのように美柑に聞こえた。
『分かりました。美柑ちゃん、落ち着いて。傷口を強く押さえてください。桔平ちゃんは意識がありますか?』
「ある……あるけど、苦しそうぞな……!」
美柑は片手でスマホを握りしめたまま、もう片方の手で桔平の腹部を押さえた。指の間から、ぬるい血がにじむ。
『他に何か見ませんでしたか?』
「え……?」
『犯人です』
「そうじゃ……黒いフードを被った男じゃ。そいつが桔平兄ぃを……」
『それは男ではありません』
神楽の声が低くなった。
『女です』
「……女?」
『はい。今、香さんが黒いフードを被った女を取り押さえています』
神楽の声は荒い。だが、言葉だけは冷静だった。
『私はこの電話を切って、すぐに救急車を呼びます』
「神楽ちゃん……!ナイフが刺さったままぞな」
『そのナイフは絶対に抜かないでください。動かさないように、周りを押さえて。すぐにそちらへ行きます』
「うん……うん、分かったぞな……」
『美柑ちゃん。桔平ちゃんから離れないで』
そこで通話は切れた。
遠くから、けたたましいパトカーのサイレンが近づいてくる。
静かな住宅地の夜が、一瞬で事件現場に変わった。
病院へ緊急搬送された桔平は、出血が激しく手術は難航した。
その手術室の前に、美柑と神楽の他、急報を受けて駆けつけた捜査一課長の山際も難しい顔をして座っていた。
「出血が激しく非常に危険な状況です。ナイフが動脈まで達している可能性もあります。それと輸血用の血液が足りません」
医師の言葉に、美柑は心が痛くなる。
「うちの血を使ってつかぁさい!」
美柑が泣きながら叫ぶ。しかし医師が静かに首を振る。
「お気持ちは分かります。しかし、宇賀田さんの血液型は特殊です」
「特殊とはどういう意味ですか」
普段は冷静な神楽の声も震えていた。
「Rh nullです」
医師の返答に、山際が即座に反応する。
「Rh null……?」
「はい。赤血球にRh系の抗原がまったくない、極めて稀な血液型です。通常のRhマイナスでも使えません」
「そんな……」
美柑は絶望する。
「血が……ないんぞな?」
「ありますよ」
その声の方を美柑が見た。
「なら、うちの血ぃを使うてください。桔平と同じです」
そこには、にこやかな笑みを讃えた姉の明菜が立っていた。
「同じ……?」
神楽が、息を呑む。
「B型Rh nullです」
明菜は、まっすぐ医師を見た。
「桔平は死にません。ここへ向かう前に、婆様がそう言うておられましたから」
その声には、不思議なほど迷いがなかった。
「しかし、すぐには使えません。血液型の再確認、感染症検査、交差適合試験が必要です」
「どれくらいかかりますか」
神楽が訊いた。
「最短で進めます。それでも三十分から一時間は見てください」
「急いでください」
明菜は静かに言った。
「その間、桔平を死なせんといてください」
明菜が、静かに言った。
医師は一瞬、言葉を選ぶように口を閉ざした。
「……先ほども申し上げましたが、ナイフが動脈近くまで達している可能性があります。現時点では、必要量の血液が確保できない限り、根本的な処置に踏み切ることが難しい状況です」
「まだ、ナイフは刺さったままなんですか」
神楽が訊いた。
「はい。無理に抜けば、大量出血を起こす危険があります。現在は固定したまま、応急処置を続けています」
「嫌じゃ……」
美柑の声が震えた。
「嫌じゃ。桔平兄ぃを助けて!」
医師にすがろうとする美柑を、神楽が後ろから優しく抱きしめた。
「大丈夫。桔平ちゃんは強いから」
そう言う神楽の腕も、かすかに震えていた。
美柑には、それが分かった。
「できる限りのことはします。ただ、ナイフが動脈を傷つけていた場合、予断を許さない状況です」
医師の言葉が、廊下に重く落ちた。
その時、明菜が美柑を見た。
「美柑ちゃん」
その声は、静かだった。
「宇賀田の血を引く女なら、桔平の力を信じなさい」
「……力?」
「桔平には、初代様がついてはる」
明菜は、にこやかな笑みを崩さなかった。
「そやから、あの子は死にません」
三十分後、明菜との適合が確認され、桔平の緊急手術が始まった。
手術室前の待合スペースには、続々と刑事たちが集まってきていた。
京都府警本部刑事部鑑識課長の国松雄三郎。京都府警本部捜査一課の久世信二。さらに、急報を聞いて駆けつけた向日町署の安田や、伏見署の浜田など、警察学校時代の同期たちの姿もあった。
「お前ら、静かにせえ」
ざわつき始めた一同を、山際万作が一喝した。その声に、待合スペースが一瞬で静まり返る。
美柑は、集まった物々しい顔ぶれを見渡した。
桔平兄ぃは、こんなにもたくさんの人に心配されとるんじゃ。
そう思った瞬間、胸の奥が少し熱くなった。
その中で、美柑の目を引く女性がいた。
すらりと背が高く、姿勢がいい。無駄のない立ち姿なのに、どこか柔らかい空気をまとっている。刑事たちの中にいても、妙に目立つ女だった。
「あの人は……?」
美柑が小声で訊くと、神楽が耳元で囁いた。
「サイバー犯罪対策課の相良凜さんです」
「相良……凜さん」
美柑は、その名前を胸の中で繰り返した。
「桔平ちゃんの、警察学校時代の同期で……」
神楽はそこまで言って、ほんの少しだけ間を置いた。
「元カノです」
美柑の胸が、きゅっと縮んだ。
凜も神楽に気がついて、こちらに向かってきた。
「お疲れ様です。神楽ちゃん、桔平の容態は?」
その声は、かすかに震えていた。
「ナイフが動脈の近くまで達している可能性があります。それに、桔平ちゃんの血液型が特殊で……」
神楽は、そこで一度言葉を詰まらせた。
「現在、お姉様が輸血を申し出てくださって、手術が始まったところです。ただ、予断を許さない状況だと……」
そこまで話すのが、神楽の精一杯だった。
凜は一瞬、唇を強く結んだ。
「愛媛県警松山西署の浦波美柑ですぞな」
美柑は、慌てて頭を下げた。
「相良です」
凜も短く名乗った。
「美柑ちゃんは、桔平ちゃんとは縁戚です」
神楽が付け足した。
凜は美柑に柔らかく微笑むと、すぐに表情を引き締めた。
「犯人は?」
「現在、現行犯逮捕され、上京署の留置施設に収容されています」
神楽は美柑の顔に目を移して、
「犯人は黒田洋子でした……」
と言った。
「え?」
美柑は黒田洋子の名前を聞いて驚いた。
「なぜ、彼女が桔平兄ぃを刺す必要があるんぞな?」
「そこまでは分かりません。明日以降、直接話をして訊きます」
美柑は、手術室の扉を見た。
今は、黒田洋子よりも、桔平だった。




